文・写真/上野真弓(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
風光明媚な南イタリアは、古代ローマ時代から皇帝たちに愛され、ローマ以南の海岸沿いの町には、多くの夏の離宮があった。
ナポリ湾に浮かぶカプリ島は、ローマ帝国第2代皇帝ティベリウスが晩年の10年を過ごしたことで知られ、彼はこの島に、なんと12に及ぶ宮殿を築いていた。
ティベリウス帝がこの島を気に入ったのは、たった1カ所だけ狭い浜から上陸でき、周囲を断崖絶壁の深い海に囲まれていたからだという。
カプリ島にあるティベリウスの12の宮殿のうち、唯一まともな廃墟として残るのがヴィッラ・ヨーヴィスだ。スエトニウスの『ローマ皇帝伝』によると、この島でティベリウスは衰えた性欲を刺激するため、各地から少年少女を集め、口にするのもはばかれるような、破廉恥で卑猥なことをし、拒否する者は拷問のあと、海に突き落として処刑していたという。むろん脚色された話であろうが、残酷で人望のなかったティベリウスだから、半分くらいは本当のことなのだろう。カプリ島では、彼の持つ悪徳のすべてをさらけ出した生活をしていたといわれている。
ここから見える景色は美しく、見ているだけで心が癒される。
それなのに、どうしてティベリウスは穏やかな気持ちになれなかったのだろうと、不思議な気がする。
癒されることのない、心の闇を抱えていたのだろうか。
花の咲き乱れるカプリ島は「愛の島」とも呼ばれ、今では世界中から観光客が訪れる高級リゾートとなっている。海のヴァカンスを楽しむだけでなく、ブーゲンビリアの咲く、きれいに整えられた小道を散歩するだけで心が躍り、まるで楽園に来たかのようだ。
この島を有名にしたのは、なんといっても「青の洞窟」である。この洞窟は、断崖絶壁にわずかに開いた海食洞で、海からしか入れない。
青の洞窟への行き方には海路と陸路がある。
海路はカプリ島の港マリーナ・グランデから船で青の洞窟の入江まで行き、そこで小舟が来るのを待つ。陸路はカプリ島のアナカプリの町から青の洞窟行きのバスに乗り、洞窟わきの乗り場で小舟を待つ。
面白いのは、洞窟に入る料金を支払わなければならないことだ。小船に乗ると、まず海に浮かぶ市営料金所に行って小舟代込みの入場料を支払い、それから洞窟の中へ入るのだ。
小舟の定員は3人とされるが、4人までは許される場合が多い。
青の洞窟の上には、グラドラと呼ばれるティベリウス帝の海辺の離宮の廃墟がある。また、洞窟奥の海面下22mからローマ時代の彫像が4体見つかっている。
それゆえ、青の洞窟は離宮の海のニンファエム(ニンフを祀る場所)だったのだろうと考えられている。
ティベリウス帝の死後、洞窟は忘れられた場所となったが、地元の人間だけはその存在を知っていた。だが、ティベリウス帝の悪行ゆえに、悪霊の住む場所として忌み嫌い、長い間、誰も近づかなかった。
その後、1830年代に、カプリ島に魅せられたドイツ人作家アウグスト・コピシュがこの洞窟を見つけ、その美しさを絶賛して以来、瞬く間に有名になり、多くの人が訪れるようになったのである。
青の洞窟の美しさは、言葉にできない。
これまでに見たこともないようなブルーである。
写真で伝えることも難しい。
自分の目で見た色と微妙に異なっているからだ。
この幻想的なブルーは、洞窟の半分が海面下に沈んでいることから、太陽の光が水中を通って洞窟内部へ入り、石灰を含んだ海底に反射して生まれるそうだ。
したがって、訪れる時期や時間帯によっても色は変わる。
私の経験から言うと、夏期(7月〜8月)の午前中が最も美しいと思う。
洞窟の入り口は、海面上1m程度で、非常に狭くて低いため、手漕ぎの小舟でしか入れない。しかも、出入りの際に乗客は仰向けに寝転ばなければならない。
波が高い日は物理的に洞窟に入れないため、カプリ島まで来ても入れないことがある。
7月〜8月は高い確率で入ることができるが、それ以外の季節、特に晩秋から冬期にかけては入れないことのほうが多い。
洞窟への出入りには、小舟のオールは使えない。熟練した船頭が洞窟の周りに張り巡らせた鎖をひいて、自らも身をそらして小舟を進める。
仰向けになっている私から見ると、まるで命がけのような印象を受けるが、海の男にとってはわけのないことなのだろう。
青の洞窟のブルーは、七変化する。
光の角度によってあり得ないほど美しい色が次から次へと現れる。
洞窟内で過ごせる時間は約5分だが、意外と長い。
幻想的な美しさを写真やビデオで撮ったり、自分の目でしっかりと見て心に焼きつけたりする時間は十分にある。
船頭が『オーソレミオ』や『帰れソレントへ』などのカンツォーネを歌い始め、非日常の光景に花を添える。
1964年、この下22mの海底から、砂に覆われたポセイドンとトリトンの彫像が発見された。地盤変動によりニンファエムは沈んでしまったのだ。
青の洞窟の内部は、入り口を背景にすると暗闇である。
奥行きは54mあるが、その感覚はつかめない。
船頭が「ここがティベリウスの宮殿のニンファエムだったところだよ」と教えてくれたが、真っ暗で何も見えない。
わけもわからず、フラッシュもつけずに夢中でシャッターを切ったら、写真が撮れていたので驚いた。
青の洞窟は、死ぬまでに1度は見ておきたい場所だ。
そこには、一期一会の美がある。
私はこれまで3度訪れたが、行くたびに異なる姿に出会い、すっかり魅せられてしまった。
どうやら、これから先も通うことになりそうだ。
文・写真/上野真弓 イタリア在住ライター、翻訳家。1984年12月よりローマに暮らす。訳書に「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」、「カラヴァッジョの秘密」「ラファエッロの秘密」(いずれも河出書房新社)がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。