文・写真/上野真弓(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)

オスティア・アンティーカ遺跡公園に残る旧オスティエンセ街道(上野真弓撮影)

地中に埋れた古代都市といえば、ナポリ郊外にあるポンペイの遺跡が最も有名だが、ローマにも砂に埋もれた古代都市の遺跡がある。テヴェレ川河口に位置した港湾都市オスティア・アンティーカだ。ポンペイがヴェスビオ火山の噴火で突然埋れたなら、オスティアは河川のもたらす堆積土で長い時間をかけて埋もれていった。

古代オスティアの街と海外線の変化を示す地図(オスティア・アンティーカ公式サイトよりhttps://www.ostiaantica.beniculturali.it/it/aree-archeologiche-e-monumentali/ostia-antica/

まず、古代オスティアの地理的変化から説明しよう。

赤い印が古代オスティアの街で、太いブルーの線はテヴェレ川。海岸線の変化は細いブルーの縦線で示されている。かつて、この街は海に面していたが、今では4キロも離れている。

また、上部のブルーの印は、紀元1世紀にクラウディウス帝が建設した新港と2世紀にトラヤヌス帝が建設した港湾施設で、むろん当時は海に面していた。

2世紀の古代オスティアの海岸線(画像はオスティア・アンティーカ公式サイトよりhttps://www.nadis.it

紀元前4世紀、海と河川に面していた古代オスティアはローマ海軍の拠点となるが、前2世紀に地中海を制覇したあとは、小麦など食料の物流拠点として商業的機能が中心となる。

もともと自然港がなくテヴェレ川の岸を要塞化して利用していたが、砂州が邪魔をして大きな船は入れなかった。そこで、ナポリ湾に船を停泊させ、積荷を小さな船でオスティアを経由してローマまで運んでいた。しかしそれも限界となり、紀元1世紀にはクラウディウス帝が人工港とテヴェレ川に繋がる運河を作り、2世紀にはトラヤヌス帝が六角形の港湾施設を作る。

街の絶頂期は2世紀で人口5万人あまり。だが、3世紀半ばから商業活動の中心は港の周辺へと移り、次第に衰退していく。そして、6世紀には堆積土で川の運航が困難となり陸路のオスティエンセ街道も森と化し、居住者もほとんどいなくなってしまう。とどめは9世紀のサラセン人の襲撃で、これ以降、街は完全に放棄される。そして、いつしか砂の下に埋れてしまう…。

古代ローマの墓地(上野真弓撮影)

現在、オスティア・アンティーカ遺跡公園に残るものは、絶頂期だった紀元2世紀頃のハドリアヌス帝の時代のものが多い。

遺跡の入り口には墓地が延々と続いている。街を囲む城壁の外にあった墓地だ。古代ローマ時代の宗教は多神教で火葬の習慣があったが、衛生的側面から居住地区から離れた城壁の外に墓を作る決まりがあったのだ。

ローマ劇場(上野真弓撮影)

初代皇帝アウグストゥスの右腕アグリッパが建設させた劇場は、2世紀に改修され収容人数が3000人から4000人と増えた。古代ギリシャでは地形の斜面を利用して劇場を作ったが、ローマは平らな地表に作り上げた。劇場の向こうには商人や船主が事務所を構えた職業組合広場が見える。

政治の中心地「フォロ」(上野真弓撮影)

フォロとは、政治や宗教の中心となる広場を意味する。ローマの神々、ユピテル(ギリシャ神話におけるゼウス)、ユーノー(ヘラ)、ミネルバ(アテナ)に捧げられた神殿、カピトリウムが今も残る。

ネプチューン浴場跡のモザイク(上野真弓撮影)

古代ローマ人にとって浴場は憩いの場だった。古代オスティアにも多くの浴場の遺跡があるが、これほど綺麗に浴場の床のモザイクが残っているのは珍しい。描かれているのは海神ネプチューンである。

古代ローマの公衆トイレ1(上野真弓撮影)

フォロのそばにもフォロ浴場の遺跡があるが、それより興味を引くのは道を挟んだ向かい側にある公衆トイレだ。

元々は商店だった場所を公衆トイレに作り替えたもので、入り口は引き戸だった。敷居の跡が中央に残っている。

トイレには20の便座が並んでいる。大理石製だ。便座間には隔てるものがないため、これで落ち着いて用を足せるのかと不思議な気がするが、時代や地域によって意識は異なるものだから、支障はなかったのだろう。

トイレは水洗式である。

2000年も昔に水洗とは驚きだが、考えてみれば、古代ローマ時代には上下水道が完備していたのだから、この発想は当たり前だったのかもしれない。

古代ローマの公衆トイレ2(上野真弓撮影)

この時代の水洗式は、当然ながら現代のものとは異なる。便座の下には常に水が流れており、それが下水に直結していた。この方法は膨大な水を消費するが、浴場そばという条件から水の問題はなかったのだろう。また、便座の前の足元に細い溝があるが、ここにも常に水が流れていた。トイレットペーパーのない時代だから、用を足したあと、常備されていた海綿を水に浸してキレイに拭いていたそうだ。古代ローマ人は清潔好きだったのだ。

ダイアナ通り(上野真弓撮影)

港町には船乗りや商人たちが滞在するため、宿屋や食堂が大賑わいだった。

ダイアナ通りと呼ばれるのは、ここに「ダイアナの家」と呼ばれる賃貸アパートがあったからだ。人口が増えるに従って、ドムスと呼ばれる戸建ての住宅は郊外へ行き、街の中心部にはインスラと呼ばれる4、5階建ての高層アパートが立ち並ぶようになった。当時すでに百万都市だったローマも、インスラが庶民の住居であった。

食べて飲める居酒屋(上野真弓撮影)

ダイアナ通りには、食べて飲める居酒屋がある。いつの世も人間の楽しみは同じだ。大理石の棚の上に飲み物や食べ物が並べられ、汚れた皿は客から見えない調理台下部の水槽に置いていたそうだ。壁にはフレスコ画が残っている。ニンジンやオリーブの実、卵、ラーパ(カブの一種)などの食物が描かれており、当時の人々がどんなものを食べていたのかが分かって面白い。

粉ひき屋兼パン工場(上野真弓撮影)

古代オスティアはローマ人の胃袋を満たす役割も持っていた。巨大な作業場が残る粉ひき屋兼パン工場では、港に着いた小麦を粉にひいてパンを作っていた。これらのパンが毎日ローマに運ばれ、ローマの庶民たちに無料配布されていたのだ。

7つの扉のミトラ神殿(上野真弓撮影)

古代オスティアにはミトラ神殿が18もあったが、そのほとんどが地図に記されていない。「7つの扉のミトラ神殿」は、状態は良いのに放棄された地区にあり、そこへ行く道もない。私はなんとか見つけて、鉄格子越しに内部を見ることができた。

神殿は、今では地上に表出しているため明るいが、当時はもちろん、ミトラ教の慣習に基づき円筒形の天井を持つ洞窟形式で作られていた。

7つの扉のミトラ神殿詳細部分(上野真弓撮影)

この神殿の名称ともなった7つの扉が神殿入口の床にモザイクで描かれている。これはミトラ教の入信者が7つの位階を上っていくことを象徴している。また、両側の信者席の端には、カウテス(日の出の象徴)とカウトパテス(日没の象徴)を見ることもできる。

ミトラ教については過去記事がある。https://serai.jp/tour/1016513

オスティア・アンティーカ遺跡公園を歩くのは体力勝負となるが、ピクニックがてら1日を過ごすのも楽しいものだ。

オスティア・アンティーカ遺跡公園
https://www.ostiaantica.beniculturali.it

文・写真/上野真弓 イタリア在住ライター、翻訳家。1984年12月よりローマに暮らす。訳書に「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」、「カラヴァッジョの秘密」「ラファエッロの秘密」(いずれも河出書房新社)がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

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