文・写真/上野真弓(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
コロッセオのそばのオッピオの丘に、暴君と呼ばれた悪名高きローマ帝国第5代皇帝ネロの黄金宮殿の遺跡がある。見学は、週末のみの完全予約制で発掘・修復作業に従事する考古学者のガイドツアーに限られるため、予約困難な隠れた人気スポットとなっている。入場の際にはヘルメット装着が義務づけられ、少し大げさな気もするが、現在も修復工事中であり、不測の事態を避けるために必要とされる。衛生上の理由からヘルメットの下につける使い捨ての白いネットと共に無料で貸し出してもらえる。
かつての黄金宮殿は80ヘクタールもの広さがあり、庭園を中心に多くの建造物があった。宮殿本館のあるオッピオの丘と歴代皇帝宮殿のあったパラティーノの丘が大列柱廊で結ばれ、途中には、現在コロッセオがある場所に人工池があり、金色に輝く37メートルもの高さのネロ帝の彫像が立っていた。この彫像はコロッソ(巨大という意味)と呼ばれていたため、のちのコロッセオの語源になったという説もある。ネロは日中だけ黄金宮殿で過ごしていたという。
紀元64年7月19日に起こった「ローマの大火」で街の大半が焼失したあと、ネロは理想の都づくりの一環で絢爛豪華な黄金宮殿を築いた。未完成だったとも言われるが、死後、彼のつくり上げたものは全否定され、そこにはのちの皇帝たちによってコロッセオや神殿が建造され、彫像は太陽神の頭にすげかえられた。宮殿本館もトラヤヌス帝の浴場建設の土台となった。そして、いつしか土の中に埋もれ、次第に人々の記憶から消えていく…
長い時を経てルネッサンス期に入ると、古典への回帰が叫ばれ、古代ローマの遺跡に興味を持つ芸術家が現われ始めた。そうして、地下に埋もれた洞窟のような遺跡を探検し、古代ローマ独特のスタイルで描かれた壁画を見つけるのだ。この壁画がいわゆるグロテスク文様である。洞窟をイタリア語でグロッタと言うことから、洞窟の中の文様をグロテスクと呼ぶようになった。当時の画家たちはこぞって地下の洞窟へ降りていき、その文様に魅せられ、自らの作品に取り入れるようになっていく。グロテスク文様は、人間と植物と動物を組み合わせて曲線でつないだ摩訶不思議な文様で、ラファエッロもヴァチカン宮殿の「ラファエッロの回廊」(非公開)をグロテスク文様で装飾している。
地下遺跡の中に入るとすぐに巨大な廊下があるが、この部分はネロの宮殿ではない。トラヤヌス帝の浴場建設の際に補強部分として作られたもので、同じような廊下が何十本も隣り合わせになっている。
地図を見ると、黒い線で描かれた宮殿の下に半円形と三角形の茶色の部分があり、廊下が斜めに隣接している。これらの廊下の部分がトラヤヌス帝の浴場建設の際につけ加えられた部分だ。実際に廊下を歩くと、まったく装飾された形跡がないため、ネロの時代のものではないことがすぐに分かる。
ルネッサンス期以降、黄金宮殿は空気に触れたため、残念ながら当時の画家たちを熱狂させたフレスコ画はその姿をほとんど残していない。時折、彩色された壁画の残り香が現われるだけだ。しかし、それでも、古代の息吹を感じる。
ところどころにグロテスク文様の壁画も残っている。今は無残なほどの廃墟と化しているが、かつての美しい姿に思いを馳せると、世の無情を感じずにはいられない。
本来は、金箔を張りめぐらし、大理石やモザイク、壁画や彫刻で飾られた、贅を尽くした宮殿だったのだ。
宮殿内の天井は場所によって高さが異なるが、廊下は特に高く、10メートルほどもある。
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』に、宮殿内には天井から花びらと香水が降りそそぐ食堂や、天空のごとく回転するドームのある貴賓室があった、と書かれている。本当だろうか。だとしたら、どこにあったのだろう。
天井には、ルネッサンス期に多くの画家たちが地上から入るために掘った穴が無数に残っている。彼らはここを降りてきたのだ。ろうそくの灯を頼りに真っ暗闇の穴の中を降りるのはかなり危険なことだったに違いない。天井にはうっすらと壁画の跡が残っている。
黄金宮殿での一番の見どころは「八角形の間」だ。実に調和のとれた美しい空間で、ただならぬ雰囲気がある。何より、ローマン・コンクリートでなければ成立しないヴォールト天井とドームがあり、皇帝宮殿がこの方法で建造された点が実に革新的である。この部屋が何に使われていたのかは不明だが、おそらく、竪琴を奏(ひ)きながら自作の詩を歌うのが好きだったネロが、内輪のゲストを招いてリサイタルを行なったり、演劇を上演したりしていたのではないかと考えられている。壁や天井に装飾がないのは、季節ごと、あるいは目的ごとに装飾を変えるためで、布などを使って飾っていたのだろうと推測されている。はたして、ネロの歌声はどんなものだったのだろう。
「八角形の間」のドームの中央には、万神殿パンテオンのように丸い穴が開いている。今では地下にあるためふさがれ、空も見えないし、明かりも入らない。この穴はオクルスと呼ばれ、ラテン語で目を意味する。採光や天井の重量の軽量化が目的だが、神が天よりすべてを見ているという意味もあったのかもしれない。
黄金宮殿のあった場所がローマの大火で焼失した一帯であったため、「ネロが放火した」という噂が出た。その噂を打ち消すため、ネロは当時マイノリティだったキリスト教徒のせいにして残酷な処刑でもって迫害する。既に、実の母親小アグリッピナも最初の妃オクタウィアも殺害していた。さらに、疑心暗鬼になって多くの側近を処刑し、かつての家庭教師、側近でもあった哲学者セネカをも自死に追いやる。豪奢で享楽的な生活を愛し、冷酷無情な暴君と呼ばれたネロ。元老院が「国家の敵」と宣言して逮捕しようとした時、ネロはローマ郊外の解放奴隷の別荘に逃げて自死を選ぶ。30歳であった。ネロは暴君として恐れられていた反面、奇抜なことをする皇帝として民衆からは人気があったとも伝えられる。ネロの墓には季節の花が絶えることなく献花されていたという。
ドムス・アウレア(黄金宮殿)
https://www.coopculture.it/heritage.cfm?id=51
Via della Domus Aurea 1, 00184 Roma
毎週土曜日と日曜日の9時15分から16時15分まで公式サイトでの完全予約制。考古学者によるガイドツアーはイタリア語か英語のみ。
文・写真/上野真弓 イタリア在住ライター、翻訳家、美術史家。1984年12月よりローマに暮らす。訳書に「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」、「カラヴァッジョの秘密」「ラファエッロの秘密」(いずれも河出書房新社)がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。