文・写真/上野真弓(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)

展望台から眺めるチヴィタ・ディ・バーニョレッジョ(上野真弓撮影)

ローマから車で二時間ほどの山あいに「死にゆく町」と呼ばれる小さな古い町、チヴィタ・ディ・バーニョレッジョがある。
日本のテレビや映画で何度も取り上げられたため、ご存知の方も多いと思う。
カランキ(悪地という意味)のある渓谷の中に、ポツンと位置する断崖絶壁の丘の町チヴィタは、内地と一本の細い橋で繋がっているだけで、まさに陸の孤島である。

その姿は言葉を失うくらい美しい。
存在自体が驚異であり、美そのものである。
それにしても、なぜこんなところに町があるのだろうか? 

この町の起源はとても古く、約2500年前にエトルリア人によって築かれた。
彼らは防衛の観点から断崖絶壁の丘の上に好んで町づくりをしており、ここを選んだのは、ティレニア海と内陸部を繋ぐ道が交差する、商業的に重要な位置にあったからだ。
中世以降は、宗教的にも大切な場所となった。トマス・アクィナスと並ぶイタリアの神学者、聖ボナヴェントゥーラがチヴィタ出身で、フランシスコ会派の修道院が建立されたからである。

しかし、そもそもこの町は、断崖絶壁とはいえ、尾根伝いの陸続きだったのだ。
それがどうしてこのような姿になったのだろう。

断崖絶壁にある民家から見たカランキ(上野真弓撮影)

この一帯は、125万年前の火山活動で出来た60メートルほどの厚みのある凝灰岩で覆われている。凝灰岩は水に弱く侵食を受けやすい。さらに、その下の地層は粘土や砂で出来ており、非常に不安定だ。そのため、チヴィタを取り囲む渓谷には、風雨による侵食によって形成されたカランキと呼ばれる独特の白い地層があらわとなっている。
エトルリア人はチヴィタの雨水を集約して地下水路を造ることで侵食を防いできた。しかし、のちにこの町を征服したローマ人は地下水路のメンテナンスを怠った。
これが悲劇の始まりである。
水のコントロールを失ったチヴィタで、町の土台である粘土層への侵食が始まってしまった。
それに加えて、この辺りは火山地帯で地震も多いため、チヴィタは、現在に至るまで常に地滑りやがけ崩れに悩まされているのだ。

チヴィタ・ディ・バーニョレッジョへ渡る橋(コロナ禍前、上野真弓撮影)

町に通じる300メートルほどの橋は、幅が狭いため車は通ることができない。
かつてはロバだけがこの町の交通手段だったが、現在は居住者やここで仕事をする者は許可を得て原付バイクかオート三輪を使うことができる。しかし、急勾配なので下りはかなり怖い。

この橋にも悲しい歴史がある。1944年、ドイツ軍がこの橋を爆破したのだ。第二次世界大戦中、イタリアは、日本とドイツと日独伊三国同盟を結んでいたが、1943年に連合軍がシチリア島へ上陸したことで、いち早く全面降伏をしていた。よって、イタリア本土はドイツ軍と連合軍の激しい戦いの場となってしまったのである。
現在の橋は1965年に建設されたものだ。

町の入口、かつてポンテ地区と呼ばれた集落の残骸(上野真弓撮影)

ところで、どうして、「死にゆく町」と呼ばれるのだろうか?

チヴィタの崩壊は、1450年に始まった。町の北側、クララ女子修道院のあったカルチェリ地区一帯、次に東南にあった集落が丸ごと、地の底へ崩れ落ちてしまった。
さらに、1695年に始まった一連の大地震でさらに崩壊は続き、多くの犠牲者を出し続けた。
18世紀に入ると、地震はもっと頻繁に起こるようになり、1764年の大地震で尾根伝いに陸続きだった道やそのそばの集落が崩れ落ち、文字通り陸の孤島となってしまったのだ。
フランシスコ会派の修道院もなくなった。
地震はその後も続き、人口は減少するいっぽうで、20世紀初頭には約650人となり、現在では11名ほどがこの地で暮らしている。

今も、チヴィタは侵食と地滑りを受け、少しずつ崩れ落ちて死に向かっている。
いつかは町のすべてが地の底に沈む日がやって来るのだ。
それが、チヴィタが「死にゆく町」と呼ばれる所以である。
最近では、霧がかかると町全体が空に浮かび上がったように見えるため、「天空の町」と呼ばれることもある。

チヴィタの町の入り口、サンタ・マリア門(上野真弓撮影)

急勾配の橋をゆっくり上ると、15分くらいで町の入り口、サンタ・マリア門へ到着する。
かつては5つの入り口を有していたが、今はここだけしか残っていない。
この門は、もともとエトルリア人が築いたものを中世に修復し、ルネサンス時代に少し手を加えたものだ。

サンタ・マリア門の内側(上野真弓撮影)
チヴィタの民家(上野真弓撮影)

チヴィタには中世の町並みがそのまま残っている。
驚くほど手入れの行き届いた家々が立ち並び、色とりどりの綺麗な花で飾られている。
どこをとっても絵になる風景だ。
住民は11人しかいないが、観光客で賑わい、宿泊施設となっている家も多く、何よりチヴィタの美しい景観を保つため、きちんと手入れされているのだ。

サン・ドナート広場とサン・ドナート教会(上野真弓撮影)

町の中心は、サン・ドナート教会のある同名の広場だ。
5世紀が起源という教会はロマネスク風の建物だったが、16世紀初頭にルネサンス風に改修された。その後も地震で被害を受けたため、何度も修復されている。

チヴィタの一本道(上野真弓撮影)

町の入口のサンタ・マリア門から、サン・ドナート広場を通り抜けて、渓谷のカランキがよく見える北の端まで、歩いて10分ほどである。
本当に小さな町なのだ。
道も1本しかないので迷うこともない。

チヴィタのレストラン(上野真弓撮影)

チヴィタには多くのバール(カフェ)やレストランがある。
軽食から地元料理、洗練された創作料理まで、様々な食べ物が楽しめる。

チヴィタの名物料理、黒トリュフの手打ちパスタ(上野真弓撮影)

この辺りの名産品、黒トリュフを使った手打ちパスタの美味しさは、イタリアで一番かもしれない。

エトルリア時代の洞窟を利用したブルスケッタ屋(上野真弓撮影)

炭火で焼いたパンに自家製オリーブオイルを塗ったブルスケッタと自家製ワインをエトルリア時代の洞窟でいただくのもオツなものである。

エトルリア時代の地下遺跡へ降りる階段(上野真弓撮影)
古代の貯水槽(上野真弓撮影)

たいていの建物にはエトルリア時代の地下遺跡が残っており、古代の貯水槽やワインの貯蔵場、オリーブオイルの作業所などを見ることができる。
無料で見学させてくれる土産品屋もあれば、2ユーロ程度の入場料を取る民家などもある。

12月、嵐の日のチヴィタ(上野真弓撮影)

チヴィタには、滅びゆくものが放つ光のような、独特の美がある。
それは、悲しくなるほどの美しさだ。
とはいえ、夏のシーズン中は世界中からの観光客で賑わい、終末の美を味わうどころではないかもしれない。
誰もいない季節に訪れてこそ、本来のチヴィタを知ることができるような気がする。

私がここを初めて訪れたのは1985年で、その頃は訪れる人も少なかった。
それ以来、何度ここに来たことだろう。
訪れる季節や時間帯によって、チヴィタはその姿を変える。
12月の嵐の日には、身の危険も感じた。
橋は、川のように水が流れ、吹き荒れる風で激しく揺れていた。
傘もさせず、ずぶ濡れになって町へ入った。
人っ子ひとりいなかった。
けれども、その情景は心に染み入り、これが本来のチヴィタなのだと、私の心に深く刻まれている。

チヴィタ・ディ・バーニョレッジョ公式サイト
https://civitadibagnoregio.cloud
入町料:5ユーロ

文・写真/上野真弓 イタリア在住ライター、翻訳家。1984年12月よりローマに暮らす。訳書に「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」、「カラヴァッジョの秘密」「ラファエッロの秘密」(いずれも河出書房新社)がある。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。

 

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