文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
1743年2月18日。この日、約380年に渡ってフィレンツェに君臨したメディチ家の、最後の後継者となる女性が息を引き取った。
アンナ・マリア・ルイーザ・ディ・メディチ。すべてのフィレンツェ市民が敬愛と感謝の念を抱く女性である。栄華を極めた偉大なるメディチ家最後の1人として、彼女がフィレンツェに遺したものとは、一体何だったのだろう。
アンナ・マリア・ルイーザは1667年にメディチ家直系の女児として生まれ、23歳の時にドイツのプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムの後妻として嫁いだ。二人は幸せに暮らしたものの子宝には恵まれず、1716年に夫ヨハンの死によって彼女は再びフィレンツェへと戻ってくることになった。
そこで彼女を待っていたのは、暗雲立ち込めるメディチ家の面々であった。父コジモ3世は年老い、兄フェルディナンドは病に伏せ、弟ジャンガストーネはアルコール中毒。おまけに父コジモ3世の行った悪政によってフィレンツェは衰退し、かつての華やかさを完全に失っていた。
ほどなく長男フェルディナンドが跡継ぎを残さずに死亡。コジモ3世はなんとかアンナ・マリア・ルイーザを次期大公にしようと奔走したものの望みは叶わず、コジモ3世の死後は弟ジャンガストーネが第7代トスカーナ大公となった。
ジャンガストーネは自堕落な男色家で、トスカーナ大公となった後も一日の大半をベッドの上で過ごす酒浸りの生活を続けた。
もはやメディチ家に跡継ぎが生まれる望みはない。この時点でメディチ家が近い将来断絶することが決定し、欧州列国が議論した結果、トスカーナ公国はハプスブルグ家ロレーヌ公が継承することになった。すっかり弱体化してしまったフィレンツェには、もはや公国を引き継げるほどの有力者が1人もいなかったのだ。
こうしてアンナ・マリア・ルイーザは、祖国が外国人の手に渡るのを見守るしかなかった。
ジャンガストーネの死後、彼女が暮らすピッティ宮殿にはウィーンからやって来たオーストリア人官僚たちが続々とやって来た。かつての支配者と新たな支配者との、気まずい同居生活である。
ミサや慈善活動に莫大な寄付を続け、一族の霊廟に足繁く通っていたというアンナ・マリア・ルイーザ。一族の愛した土地が外国人たちの手によって荒らされていくのを見るのは、どれほどの痛みであっただろうか。彼女には摂政の地位が与えられたものの政治的な効力は持たず、メディチ家の威光は宮殿内で既に過去の遺物となりつつあった。
アンナ・マリア・ルイーザは、新トスカーナ大公となったフランツ・シュテファンとその妻マリア・テレジアによって、メディチ家の資産が海外へと持ち出されることを懸念していた。
「このままではメディチ家の宝が外国へと流出してしまう。」
一族が約4世紀に渡って収集してきたコレクション、芸術作品、建造物、宝石など、その資産のすべてが最後のメディチ家として残された彼女の手に引き継がれていた。これらの財産を、自分の身内や親しい人に分散して相続させるという選択肢もあったかもしれない。しかし彼女は、もっと大きな使命に駆られていた。
自分の命があるうちに、これらの資産をあるべき場所に留めおく手段を講じなければ!と。
こうして彼女は、ある条約を作成した。Patto di Famiglia(パット・ディ・ファミーリア)、家族協定と呼ばれるこの条約の中で、彼女は以下のように記している。
「メディチ家の資産は、トスカーナ公国外に持ち出してはならない。また、これらの資産は外国人の興味を引き、公共の利益になる目的で利用されることを条件に、全ての資産をトスカーナ公国に寄付する」
メディチ家が所有していた膨大な芸術作品、数々の大傑作が、この協定によって永遠にフィレンツェに留め置かれることが決まったのである。しかも彼女は、利用目的を「外国人の興味を引き、公共の利益になる目的で」とハッキリと記している。
フィレンツェが将来観光都市になること、これらの作品を見るために海外からも旅行客が訪れることを、なんと300年も前から見通していたのである。
観光旅行が一般的でなかった中世の時代に、彼女のような先見の明を持った女性がいたということが驚きである。
毎年2月18日は、アンナ・マリア・ルイーザの功績を讃えてフィレンツェの美術館が無料開放される。
屋根のない美術館とも評されるルネッサンスの街、フィレンツェ。しかし、美術の教科書で必ず目にするボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作も、ミケランジェロの彫刻も、彼女がいなければ今頃はフィレンツェの物ではなくなっていたかもしれない。世界最高峰の作品が集まるウフィツィ美術館も、存在すらしていなかった可能性もある。芸術の都フィレンツェとはつまり、メディチ家の遺産で成り立っている街であり、アンナ・マリア・ルイーザが結んだ家族協定がなければ、今日の世界遺産都市フィレンツェの姿はなかっただろう。
アンナ・マリア・ルイーザが息を引き取った時、ピッティ宮殿を揺るがすほどの強風が吹いたと伝えられている。歴々と続いてきたメディチ家の魂が一陣の風となって、大役を終えた最後の姫君を迎えに来たのだろうか。
Cappelle Medicee (メディチ家礼拝堂) http://www.bargellomusei.beniculturali.it/musei/2/medicee/
住所 Piazza di Madonna degli Aidorandini, 6, Firenze
文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター)
2009年よりイタリア在住。イタリア在住ライターとして多数の媒体に執筆する他、マーケティングリサーチャー、トラベルコンサルタント、料理研究家など幅広く活動。自身のYouTubeチャンネルで素顔のイタリアを届ける海外動画の配信も行っている。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)