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「龍馬のサブ」ではなかった中岡慎太郎【にっぽん歴史夜話 9】

文/砂原浩太朗(小説家)

こうち旅広場の中岡慎太郎像

中岡慎太郎(1838~67)の名は知っていても、たいていの人は坂本龍馬を主役とするドラマや小説の脇役として覚えがある程度ではなかろうか。だが、中岡が龍馬と行動をともにしたのは晩年の2年半ほどにすぎず、それ以前は志士として独自の活動をおこなっていた。また、歴史上、龍馬の功とされることが多い薩長同盟も、じつは中岡なくして成立しえないものだったのである。本稿では、坂本龍馬のサブ的存在として語られがちな中岡慎太郎に焦点を当て、その隠れた功績を顕らかにしたい。

武市半平太との出会いが運命を変えた

慎太郎は天保9(1838)年、土佐の安芸郡北川郷(高知県安芸郡北川村)に大庄屋の長男として生まれた。後述するが、彼は民政にもすぐれた才をうかがわせており、平和な時代であれば名庄屋として生涯をまっとうしたものと想像される。

が、時代は騒然たる幕末に突入する。郡内の藩校で学んでいた慎太郎は、18歳の折、武術指導のため訪れた武市半平太(号は瑞山〈ずいざん〉。1829~65)と出会う。武市は郷士の出だがとりわけ剣に秀で、高知城下に道場を開いていた。

この巡り会いが志士・中岡慎太郎を生んだといっていい。武市に傾倒し、弟子となった彼は村を出て、2年間を城下で暮らすことになる。この間、数多の先達から歴史や兵学、西洋砲術などを学び、武市と交友のあった坂本龍馬とも知り合う。ちなみに、龍馬は慎太郎よりも3つ齢上である。

民政家としてのすぐれた手腕

安政4(1857)年、父の病によって家へもどった慎太郎は、翌年、大地震で痛手をこうむった村を復興させるべく力をつくす。自家の田畑を抵当にいれ、飢えた村民に米をくばった。それだけでは足りず、藩からも備蓄米を提供してもらうべく陳情におもむいたものの、翌日来るようにとすげなく追い返されてしまう。慎太郎は役宅の門前で夜通し座りこみ、朝を待った。その覚悟にうたれた重職は、すぐさま蔵をひらいたという。

これだけなら熱誠ある若者の美談というところだが、慎太郎は、植林や作物の栽培指導など、民政家としてもすぐれた資質を見せている。こんにちも、「光次(慎太郎の前名)の並木」と呼ばれた一帯が跡をとどめ、育成を奨めた柚子は村の特産品となっているのだ。
だが彼は庄屋として生きる道をえらばなかった。文久元(1861)年、武市が尊皇攘夷の旗をかかげて土佐勤王党を結成するや、いちはやく加盟。192名中、17番目というから、熱意のほどが推しはかれるだろう。翌年、江戸に出た慎太郎は、師の縁をたどって長州藩士・久坂玄瑞(げんずい)の知己を得る。武市は剣術修行のため江戸へ遊学した折、諸藩の士と友誼を交わしていたのだ。後年、薩長同盟の締結につながる下地が、早くもこの時期から築かれはじめる。

薩長同盟、真の功労者は

文久3(1863)年、世に言う「八月十八日の政変」がおこる。攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)らが失脚したのだ。三条ら七卿は都を落ち、後ろ盾となっていた長州藩の領内へ逃れた。帰郷していた慎太郎はこの異変を聞き、ひそかに国を脱して自らの目でことの次第をたしかめようとする。とはいえ、すでに妻もめとり、庄屋の跡取りとしての立場もある。生半可な覚悟でできることではない。

このあたりの事情をはっきり示す史料はないが、筆者はこの出奔を武市に命じられての行動と推測している。じつはこの直後、土佐勤王党は藩からの弾圧にあい、武市ら以下も捕縛されてしまうのだ(2年後に切腹)。いささか小説的な想像をめぐらせれば、危機を予感した師が、役目をあたえて愛弟子を逃がしたという可能性もあるだろう。

いずれにせよ、命をひろった慎太郎は長州に身を寄せ、客分として遇される。久坂や高杉晋作といったリーダー格の志士と深い交流をかさねる一方、京に潜伏し西郷信吾(のち従道。隆盛の弟)ら薩摩藩士とも面識を得ていく。また、あまり知られていないことだが、翌元治元(1864)年、有名な禁門の変(蛤御門の変)では長州勢の一員として出陣してもいる。

時勢はしだいに攘夷から討幕へとかたむいていくが、慎太郎は長州・薩摩という二大雄藩の同盟なくして幕府を倒すことは不可能と判断、その実現へむけて動きはじめる。「時勢論」という著作には、「天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし」とはっきり記されているのだ。薩摩の志士筆頭とも言うべき西郷隆盛とはじめて面会したのは、禁門の変がおこった年の末である。さらに翌年、坂本龍馬が同志となるが、交渉はつまずきの連続だった。いちどなどは西郷が会談を一方的にすっぽかし、長州側を激怒させたことさえある。自藩の利のみに気もちを向けがちな両者のあいだを、ふたりは粘りづよく周旋してゆく。

が、龍馬の交友は勝海舟との師弟関係からもうかがえるように、むしろ幕府方のほうに厚い。この同盟は、薩長双方にわたる慎太郎の人脈と信頼なくしては成しえないものだった。

では、なぜこれが龍馬の手柄として語られているかというと、慶応2(1866)年、京で薩摩の西郷と長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)との会談に立ち会い、最終的に同盟をまとめたのが彼だからである(慎太郎は当時、長州に滞在)。むろん、この功績が大きいのは言うまでもないが、龍馬ひとりにすべてを帰すのは一方的な気がしないでもない。慎太郎をよく知る福岡藩士・早川勇も、「薩長和解は……内実の功労は中岡慎太郎が多いと思う」と維新後に語っている。

両藩同盟の成立が徳川幕府を追いつめ、翌慶応3(1867)年10月、最後の将軍・徳川慶喜が朝廷に政治の権を返上する。いわゆる大政奉還である。そのひと月後、慎太郎と龍馬は京で見廻組(討幕派取締りのため、幕府が創設した部隊)に襲撃された。龍馬は当日のうちに絶命したが、慎太郎はなお2日を生きのびた末、息をひきとっている。満でいえば29歳7ヶ月の若い命が散った。

冒頭に記したごとく、慎太郎と龍馬が行動をともにしたのは晩年の2年半にすぎない。が、ふたりが固く結びついていたのもまた事実である。龍馬は慎太郎について、次のようなことばを残している。「之レト相謀ラザレバ、復タ他ニ謀ルベキ者ナシ」――中岡とでなければ、事を成すことはできぬ、と。慎太郎の功績をもっともよく知るのは、坂本龍馬その人だったのかもしれない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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