彼と過ごしたのは、たったの3時間。1日1時間の3日間だった…

「それが凛としていて美しくてね。天草四郎、森蘭丸、『南総里見八犬伝』の犬塚信乃、白虎隊……そんなものが連想された。彼は常にポーカーフェイスだった。私たちの世代は子供のころから感情を表に出さないように教育されてきており、今の子供達が出すノイズにうんざりしていた。彼が感情を表に出さないことも、親近感を持った」

憲和さんが彼と過ごしたのは、たったの3時間。1日1時間の授業、3回分だ。

「彼の姿を脳裏に焼き付け、自分が持てる知識のすべてを、彼に与えようとしていた。いつも以上に熱心に教え、教材も工夫した。ファッションはもとより、体臭や口臭にも気を配った。『汚いオヤジ』と思われたくなかった。あれだけ集中した3日間は、初恋の15歳以来、なかったかもしれない」

この3日間で、憲和さんは「恋わずらい」で食欲が激減し、4キロほど減量。彼の姿をみられる喜びにあふれた毎日を過ごし、肌の色つやが劇的に良くなったという。

「週末に彼女に会うと『あら、あなた恋でもしたの?』と言うんだよ。女の人は鋭いよね。つい全部を話してしまったら、『私もそういうこと、あるよ』って。私の恋はアイドル、アーティスト、甲子園球児、フィギュアの選手……そういう人々への崇拝に似ていると指摘してくれた。さらに、老境に差し掛かると、その姿を追うだけで、満たされる恋の形があるというようなことを話しており、まさにその通りだと思ったね」

その後、憲和さんの恋は、あっという間に終わりを告げた。

「それから20日後、夏休みの最後に、塾生が集まる機会があり、彼との再会を楽しみにして行った。しかし、そこには夏休みの初めに出会った美少年はいなかった。白かった肌は日に焼けており、夏休みの不規則な生活からか、彼の体はふっくらしていた。凛としたたたずまいは霧消し、同世代の男の子とスマホを見ながら笑い合っている姿は別人のように下品だった。私に対してもなれなれしい態度をとってきたのも、とても残念だった。でも普通の少年になっていて、ちょっと安心したんだ」

振り返っても、あれだけ心を動かされることはもうないと思う、と憲和さんは続ける。

「15歳で同級生に恋に落ち、初めて女性と関係を持ったのが20歳。そこから45年間、私にとっての“恋愛”は、欲望と肉体の重さと生々しさ、ある種の責任と駆け引きがつきまとっていた。しかし、65歳にして、そういうことを飛び越えて、“ただひたすら美しい”ことで、魂をつかまれるような経験をした。恋の始まりが15歳なら、今回は恋の終わりなんだろうな。今年の夏休みは彼女とベネチアに行ってみようと思っているんだ」

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