文/鈴木拓也

近鉄橿原線の郡山駅を降り、線路沿いに北上すると、長く延びた堀に行きあたる。そこを左に折れて進むと、さらに別の堀と石垣があり、遠目に城郭建築が現れてくる。そこが、郡山城跡である。

堀の向こうに見える郡山城跡の追手向櫓。

城自体は、明治6年(1873)の廃城令で取り壊され、処々の建築物は昭和時代に建てたもの。多くの桜も植えられ「日本さくら名所100選」に選定されている。どちらかと言えば、市民の憩いの場として整備されたこの城跡が、かつては豊臣秀長の居城であったことで大きな注目を浴びている。

昭和58年に復元された追手門。

きっかけはもちろん、現在放映中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』だ。放送開始を受けて地元商店街では「豊臣秀長」と書かれたのぼりが立ち、市の観光協会は秀長ゆかりの地を巡る「秀長さんまるっとマップ」を配布している。城跡そばの「DMG MORI やまと郡山城ホール」の1階は、「豊臣兄弟! 大和郡山 大河ドラマ館」として3月2日にオープン予定など、地域全体が熱気を帯びている。

そのなかで筆者が注目したのは、城跡内の(復元した)東多聞櫓で開催されている展覧会「秀長と郡山のあゆみ」だ。本展の趣旨は「古代から近世に至るまで、大和郡山の歴史が一度に体感できる展覧会」。この地で出土した考古資料が多数展示され、ドラマのファン向けにとどまらない、奥行きの深い催しとなっている。

「秀長と郡山のあゆみ」展覧会の会場入り口。

秀長の菩提寺で使用されていた鬼瓦

実際に探訪したので、そのあらましを紹介しよう。ガイド役を務めるのは、大和郡山市役所職員で文化財の保存・活用に尽力する十文字健さん。会場に入ると、迫力のある鬼瓦がいくつか陳列されていたので、まずこれらについて説明をうかがった。

展示物の鬼瓦について解説する十文字さん。

「近くに春岳院というお寺がありますが、これは豊臣秀長の菩提寺です。その本堂を、老朽化にともなって全面的に修繕した際、屋根も葺き替えました。その屋根にあった鬼瓦が市に寄贈されましたので、それらの一部をこうして並べています。よく見ると、正徳五年といった、鬼瓦が製作された年が書かれています。江戸時代の城下町の瓦を知る上で、非常に大事な資料ですね」

鬼瓦は、互いに似ているが、細かいところは差異があって面白い。ここに展示されていないものを含めると、バリエーションはさらに豊富だという。

展示されている様々な鬼瓦。

このコーナーには、春岳院蔵の豊臣秀長画像の印刷物もパネル展示されている。秀長は、どういった人物であったのか?

「実は、秀長については、一次資料が非常に少なく、人物像はほとんどわかっていません。ただ、秀長が郡山城下において実施してきた政策の一部は、江戸時代にも引き継がれ、この地域が発展する土台になりました。その代表例が箱本制度です。これは城下に13あった町が、月番の持回りで城下の自治にあたるというものでした。

秀長の性格的な側面も不明ですが、大名など様々な人を接待し、交渉の場に立っていたことがわかっています。徳川家康も、秀長には心を開いていたようで、秀長経由で秀吉といろいろな折衝をしています。秀吉が、トントン拍子でのし上がれたのも、秀長という調整役がいてこそだったと思います。そのあたりの人たらしな面は、大河ドラマでも強調されるかもしれませんね」

古代郡山の考古資料も展示

展覧会では、いったん弥生・古墳時代にさかのぼり、そこから奈良、平安時代へとくだるかたちで、発掘された土器などが展示されている。奈良時代においては、平城京の正門である羅城門の程近くに、後に郡山城がつくられる丘陵地が位置していた。

奈良時代につくられた土器などの出土品。

「郡山」という地名が史料に初めて出てくるのが平安時代の終わり頃で、鎌倉時代には城が築かれたという記述が残っている。戦国の世になると、織田信長に大和一国の統治を認められた筒井順慶が郡山城に移り、本格的な築城に着手した。天正11(1583)年には天守を上棟したようだが、遺構は今もって確認されていない。

筒井氏が伊賀に国替えとなり、秀長が郡山城主となったのは、天正13(1585)年。奈良の興福寺などの既存勢力を監視でき、大坂・京都への交通の要衝もおさえる拠点として、大規模な整備がなされた。

十文字さんは解説を続ける。

「郡山城跡では、これまで100回以上の発掘調査がなされましたが、秀長が城主の時期の出土品は案外少ないのです。城の中心部分の本丸を掘るとよく出てくるのがお皿。大規模な宴会や地鎮といったおまじないをしたかなと思いますが、実態は不明です。ただ、少なくとも秀長の時期には本丸がしっかり造られていて、そこで盛んな営みがあったことは確実かと思います」

本丸のあった箇所から多数発掘された皿。

石垣に用いられた意外な石材

城の発掘品の1つのハイライトとなるのが、天守の軒先を飾った瓦だ。

「金箔が貼られていた瓦がいくつも見つかっています。これだけでも、絢爛な天守があったことがわかりますね。聚楽第や大坂城にあったものと同じ文様の瓦も出土しており、秀吉との関わりが非常に色濃い城であったことがわかります」

郡山城の天守に用いられた瓦。

十文字さんが、「郡山城は、石垣が見どころで、一番面白いところでもあります」との前置きで紹介したのが石仏だ。天守台の石垣の解体修理の際に出てきたものだという。

「この地域は石材が乏しく、築城にあたってはこうしたお地蔵さんなどの石仏も転用されました。ほかに、五輪塔もかなりの数が使われているのが判明しています。天守台の1割を解体・発掘しただけでも、こうした転用石材が約800体も出てきました」

石垣に使われた石仏たち。

幾多の災害を克服しながら発展を遂げる

豊臣家の滅亡後、廃城になっていた郡山城は、徳川幕府にとっても政治的・軍事的な要衝とみなされ復興を遂げる。城主は譜代大名が歴任し、18世紀初頭から幕末までは柳澤氏がその任を司った。城跡からは、歴代城主の家紋をかたどった軒瓦が出土しており、これらも展示されている。

歴代城主の家紋がみえる軒瓦。

秀長が基礎を築いた箱本制度は、江戸時代を通じて継承された。自治を担う町は13町から27町に拡大し、当地の経済発展の礎ともなった。醤油醸造業、金融業、宿泊業など様々な産業があり、活況を呈していたようだ。

一方で、たびたび大火に遭い、甚大な被害をこうむってもいる。焼けて使い物にならなくなった建材や道具類は、復興時にまとめて廃棄され、それが現代の発掘調査によって往時を知る一資料として保存される。それらも展示されている。

「城下町も、順風満帆に右肩上がりで発展して今日に至ったわけではありません。火事、台風、地震で、幾度も苦難に直面しました。でも、そのたびに、倒壊した家屋などをきちんと整理して、街を再生させてきました。秀長のような優れた為政者の存在も大事ですが、住人たち一人一人が主役となって生まれるエネルギーこそが、この城下町の真の原動力だったと思いますね」

十文字さんは、こう解説をしめくくった。歴史といえば、著名な政治有力者に視点が向きがちだが、市井の人々の営みがあってこそ国や地域が形作られる。そんな思いを新たにした、実り深い探訪であった。

展覧会「秀長と郡山のあゆみ」
開催場所:奈良県大和郡山市城内町253−2(郡山城跡東多聞櫓内)
会期:令和8年1月22日〜令和9年1月31日
休館日:原則無休(ただし令和8年12月28日~令和9年1月4日および「大河ドラマ館」の休館日は休館)
開催時間:10時〜17時(最終受付16時半)
入館料:300円(中学生以下、市内在住または市内に所在する高校に通学する高校生、障害者手帳をお持ちの方と介助者1名は無料)
展覧会案内サイト:https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/soshiki/machidukuri_senryaku/rekishi_bunkazai/7/16994.html

文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。

 

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