文・写真/山内貴範
日本の戦後漫画の開拓者である巨匠・手塚治虫は、少年漫画から少女漫画、はたまた青年漫画まで、ありとあらゆるジャンルの漫画を手掛けましたが、日本人建築家の先駆けであり、明治~大正時代の建築に大きな功績を残した辰野金吾もまた、実にありとあらゆる建築を設計していることで知られています。
そのジャンルは、「日本銀行本店本館」や「東京駅丸の内本屋」などの国家プロジェクトに携わったかと思えば、「武雄温泉楼門・本館」のような民間のレジャー温泉施設も手掛けています。
ジャンルだけでなく、作風が極めて幅広いことも特徴です。「東京駅」に見られる赤レンガに白い花崗岩でアクセントを付けたデザインは、“辰野式”と言われるほど、彼を象徴する作風となっていますが、「松本家住宅洋館」では流行のアールヌーヴォーを取り入れたり、「南海電鉄浜寺公園駅」ではハーフチンバーを取り入れたリゾート風、「奈良ホテル」では和風のデザインに挑戦しています。
大阪府河内長野市、天見温泉に建つ旅館「南天苑本館」も辰野の設計で、大正2年の竣工。こちらは純和風の佇まいで、彼が得意とする洋風のモチーフは完全に影を潜めています。大正3年に完成した「東京駅」とわずか1年違いで完成していますから、ひょっとすると、同時に図面を引いていた可能性があります。
“明治建築界の帝王”と言うべき立場である巨匠が、なぜこれほどまでに様々な作品を手掛けたのでしょうか。
辰野は明治35年に東京大学の教授の職を途中で辞し、翌年、民間に事務所を開きました。当時の日本には建築家という職業が認知されていませんでした。間違いなく、そのまま大学に留まっていた方が収入も地位も安定していたはずです。しかし、辰野は果敢にも挑戦し、茨の道を歩みました。実際、「東京駅」の設計依頼が来るまでは収入がほとんどない時代が続いたといいます。
辰野は息子たちに対して、「建築家にはなるな」と口癖のように言っていたといいますが、仕事の苦しさを痛切に感じていたことがよくわかるエピソードです。そのため、来た仕事は断らずにどんどん引き受けたのでしょう。結果的に、ジャンルや作風も幅広いものになったのです。
辰野が建築事務所を作ったことで、若手も相次いで事務所を開設するようになり、建築文化が急速に発展していきました。保守的になることはなく、最後まで冒険の心を続けた彼の生き様は、まさに明治の日本人の気概そのものといえるでしょう。
文・写真/山内貴範
ライター。「サライ」では旅行、建築、鉄道、仏像などの取材を担当。切手、古銭、機械式腕時計などの収集家でもある。