明治時代を代表する建築家・辰野金吾(たつの・きんご)には、「建築家になったからには、生涯この3つを設計したい」という野心があった。1つ目は「日本銀行本店」、2つ目が「東京駅」(中央停車場)、そして3つ目が「国会議事堂」であった。
明治29年に辰野は「日本銀行本店」を完成させ、大正3年には「東京駅」を竣工へ導く。こうして、辰野の最大の関心は「国会議事堂」の設計へと向けられるようになった。
ところが当時、国会議事堂の設計については、大蔵省の建築を多く手がけるなど国とのパイプも太かった妻木頼黄(つまき・よりなか)に決まりかけていた。
ここに辰野は待ったをかけた。「コンペ形式で案を募り、設計者を決めよう」と提案したのである。
一見公平に思える提案だが、審査委員長には辰野が就任し、しかも「審査委員長も応募できる」という内容だった。審査委員長が自作を選出するのは目に見えている。これにはさすがに批判が巻き起こり、辰野の親友であった建築家・曾禰達蔵(そね・たつぞう)も苦言を呈するほどであったという。
程なくして「審査委員長も応募できる」という要項は削除されたが、辰野はそれでも「国会議事堂」を設計する夢を諦めていなかった。
例えば、「大阪市中央公会堂」のコンペでは、のちに「明治生命館」を設計する岡田信一郎が選ばれたが、審査委員長だった辰野は岡田の案に大きく手を入れ、自作に仕立ててしまっている。「国会議事堂」でも最終手段として、こうした“禁じ手”を使おうと目論んでいたのかもしれない。
しかし、「国会議事堂」のコンペは波乱ずくめだった。妻木が病に倒れて亡くなり、辰野までもがスペイン風邪でこの世を去ってしまったのだ。明治建築界の大御所を立て続けに失ったコンペは遅れに遅れ、議事堂は昭和11年にようやく完成を見た。結局そのデザインは、設計者があいまいな、いわば“詠み人知らず”のデザインになってしまったのである。
ところで、辰野は性格こそ強引なところはあったが、人々に親しまれる建築をデザインする手腕は極めて高かった。「東京駅」をはじめ、手掛けた建築は各地のランドマークとなり、愛されている。
現在の「国会議事堂」は、なるほど、名建築には違いないが、あのピラミッド状のシルエットを愛する人が多いかというと疑問が残る。もし辰野が「国会議事堂」を設計していたらどうだったか。日本の政治の舞台に対する印象も、ずいぶん違うものになっていたに違いない。
文・写真/山内貴範