写真・文/鈴木拓也

奥津軽のJR五所川原駅で、1両編成の津軽鉄道に乗り換えて約20分。吉幾三に「おらこんな村いやだ」と唄われた嘉瀬の近くに金木(かなぎ)駅がある。

この駅で降りて「メロス坂通り」に沿って歩き、「太宰通り」のある方向へ右折すると、びっくりするような大きな建物が目に入る。これが太宰治の生家と言われても、小説の作風からイメージされるものと折り合いをつけるのに苦労しそうだ。

これは、太宰が生まれる2年前の1907年、大地主で巨万の富を築いた父の津島源右衛門が建てた豪邸だ。

明治時代末期に建てられた太宰の生家

設計・建築を担当したのは、第五十九銀行本店を手掛けるなど、青森屈指の名棟梁であった堀江佐吉。建築費は、今の貨幣価値に換算すると5~6億円になるという。

太宰はここで幼・少年期を過ごしたが、不自由のない生活とは裏腹に、屈折した思いを抱きながら成長した。晩年書かれた『苦悩の年鑑』には、こんな一節がある。

父は代議士にいちど、それから貴族院にも出たが、べつだん中央の政界に於いて活躍したという話も聞かない。この父は、ひどく大きい家を建てた。風情も何も無い、ただ大きいのである。間数が三十ちかくもあるであろう。それも十畳二十畳という部屋が多い。おそろしく頑丈なつくりの家ではあるが、しかし、何の趣きも無い。書画骨董で、重要美術級のものは、一つも無かった。

しかし、今の人から見れば、明治時代の豪奢な建築物の「風情」を偲ばせる文化財として目に映る。1階が11室、2階が8室、米蔵・庭園をあわせて約680坪の敷地があり、国の重要文化財に指定後しばらくして、「太宰治記念館 斜陽館」として一般に開放された。

ここを訪れた人は、外観以上に内部の豪華さにも目を奪われるはずだ。日本三大美林の1つ、青森ヒバをふんだんに用いた広々とした座敷にはじまって、ケヤキ造りの重厚な階段、瀟洒な洋間、金襖の貴賓室、金色に輝く仏壇など、家によって自身の威光を知らしめようとした、太宰の父の意気込みが伝わってくる。

1階土間の突き当りから常居をのぞむ

2階の洋間(奥には太宰が中学生の頃によく寝そべった長椅子が見える)

2階からは美しい日本庭園が俯瞰できる

津島家の栄光は長くは続かなった。戦後の農地改革によって没落し、邸宅も他家に手放したのである。太宰の最晩年の小説『斜陽』には零落した貴族が登場するが、その着想を得たのは、実家の津島家に起きた出来事に他ならない。

さて、「太宰治記念館 斜陽館」を出て、「メロス坂通り」を駅へ戻る方向にたどると、左手に「太宰治疎開の家」(「旧津島家新座敷」とも)が見える。

「太宰治疎開の家」(「旧津島家新座敷」)

もともとこの住宅は、1922年に津島源右衛門の三男で、太宰の兄である津島文治の新居として、実家(つまり「斜陽館」)を建て増してできたもの。

正確には「離れ」であるが、堀江佐吉の四男伊三郎の設計した、洋室1間、和室4間からなる、当時の基準では立派な邸宅。

問題行動の絶えなかった太宰は、兄の文治とは絶縁状態にあったが、33歳になって病床の母親を見舞う機会を与えられ、東京を出てこの家を立て続けに2度訪れた。その2年後には、小説『津軽』の取材のために再び来訪。その翌年には、空襲を逃れて、妻子ともども疎開してくる。その頃には兄とのわだかまりも解けており、太宰にとってこの家は心安らぐ場所であった。

疎開して間もなく終戦を迎えると、太宰の創作意欲に火がつき、20作品余りをこの家の書斎で書き上げる。

戦後の混乱がひとまず一段落した1946年11月に東京へ戻るが、その1年半後に自ら人生を絶ってしまう。そのため、「太宰治疎開の家」が、彼が文壇で頭角を現して以降の、現存する唯一の居宅となる。

この家は、時とともに忘れさられていったが、2007年に私設ミュージアムとしてオープン。太宰ファンや現役作家も訪れる、太宰ゆかりの「穴場スポット」として知られるようになった。

「太宰治疎開の家」は展示物を最小限に抑え、極力当時の面影を再現。現所有者は「在りし日の作家の体温」を感じられるよう、細かい配慮をしながら保存に努めている。

訪問者が最初に入るのは十畳間。太宰が、「枯れた草のように」やつれた母と対面した部屋である。

太宰が危篤状態の母を見舞った十畳間

その奥にあるのが、通称「太宰の書斎」。津軽塗の卓を置き、そばに火鉢を据えて、太宰が旺盛な執筆欲を解放した部屋である。

数々の作品が紡ぎ出された「太宰の書斎」

ここを抜け、廊下伝いに歩くと洋間がある。太宰が母の容態の悪さにうろたえ、ここでひとり涙をこらえた。「スウィッチをひねっても電気がつかない」(『故郷』)と書いていることから、当時この部屋は使用されていなかったらしい。3年後、疎開してきた太宰がここに居つき、文学青年たちと語り合ったり、朗読会を催すなどして、束の間活気を取り戻した部屋でもある。

太宰が文学青年たちと語り合った洋間

「太宰治疎開の家」が、「斜陽館」から100m近くも離れているのは、戦後の農地改革で地主制度が崩壊した余波で、文治が実家を売却した際に、この離れだけを東に曳家して、自分の居宅としたため。華やかな印象の「斜陽館」と切り離されたことで、この家はいっそう静謐な雰囲気をたたえ、太宰の息遣いが聞こえてきそうな錯覚さえおぼえる。

*  *  *

以上、太宰治とかかわりの深い奥津軽の名所2棟を紹介した。金木ではこの他に、幼少時の太宰が、遊んだり本を読んだりして過ごした雲祥寺、南台寺、金木八幡宮が「太宰通り」に面して位置し、もう少し足をのばせば太宰治文学碑や太宰治像の置かれた芦野公園がある。たとえ太宰ファンでなくとも、津軽地方観光の折には、立ち寄る価値のある場所となっている。

「太宰治記念館 斜陽館」
住所:青森県五所川原市金木町朝日山412-1
電話:0173-53-2020
開館時間:5~10月は8:30~18:00(最終入館は17:30)、11~4月は9:00~17:00(最終入館は16:30)
休館日:12月29日
入館料(大人):500円
公式サイト:http://dazai.or.jp

「太宰治疎開の家」
住所:青森県五所川原市金木町朝日山317-9
電話:0173-52-3063
開館時間:9:00~17:00
休館日:不定休
入館料(大人):500円
公式サイト:http://dazai-ya.shop-pro.jp

写真・文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は散歩で、関西の神社仏閣を巡り歩いたり、南国の海辺をひたすら散策するなど、方々に出没している。

 

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