信長が電光石火攻めこんだ戦い
I:実際に古戦場をめぐると見方が変わってくるのですね。『麒麟がくる』では、この合戦を時代のターニングポイントとして扱っていたと思いませんか?
A:そうですね。〈天文22年、今川軍は知多郡にある織田方の諸城を攻略するため、北側に村木砦を築いた。周囲の城はすでに今川方に降っていた。緒川城は孤立し、信長の助けを求めた〉とわかりやすく解説されていました。緒川城には水野信元と竹千代の生母・於大がいるわけです。
I:信長が道三に援軍を求めて、その結果また息子・高政(義龍)とひと悶着を起こすんですよね。
A:〈一度会うただけの海のもの山のものともわからぬ男のために兵を出す〉と憤る高政の気持ちもわからないではないですけどね。
I:それに対する道三のセリフが良かったですね。〈口惜しいが信長を甘く見ると、そなたも稲葉も皆信長にひれ伏す時がくるぞ〉――。しびれますね。
A:結局、道三は1000人の兵を援軍として手配して信長居城の那古野城の守備を担当するわけです。織田家の中でも道三に乗っとられるのでは?という声があがったといいますから、信長・道三の義理の親子はよほど馬があったのではないでしょうか。
I:この合戦の時、信長は、大風で船頭らが止めたにもかかわらず、熱田の湊から出航したらしいですね。
A:まさに電光石火の進軍だったそうです。信長が初めて合戦で鉄砲を使用した場面もしっかり描かれていました。
I: 斎藤道三は、この戦いのことを聞いて、信長のことを〈すさまじき男、隣にはいやなる人に候よ〉と評したのですよね? でも織田軍の犠牲も多かったといいます。
A:『信長公記』には、信長小姓の多くが戦死した旨、記されていて、信長が悲嘆して涙したことが記録されています。
I: 染谷信長が戦死者の前で泣くシーンにはうるっときました。信長の人間味のある場面でした。
A: 安部龍太郎さんが『半島をゆく 信長と戦国興亡編』の中で村木砦の戦いをこう評しています。〈信長の若い頃の戦といえば桶狭間の戦いが有名だが、村木砦の戦いも勝るとも劣らない。苛烈な決断といい、初めて鉄砲を使っていることといい、信長の天才性をうかがうには恰好のケースである〉。
I: なんだか、もう一度見直したくなりました。土曜日の再放送を見なくちゃですね。
●ライターI 月刊『サライ』ライター。2020年2月号の明智光秀特集の取材を担当。猫が好き。
●編集者A 月刊『サライ』編集者。歴史作家・安部龍太郎氏の「半島をゆく」を担当。初めて通しで視聴した大河ドラマは『草燃える』(79年)。NHKオンデマンドで過去の大河ドラマを夜中に視聴するのが楽しみ。編集を担当した『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』も好評発売中。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり