【サライ・インタビュー】

保科正さん(ほしな・ただし、家具会社顧問、デザイナー)

――家具を通じ、豊かなライフスタイルを提唱して半世紀――
「一日一日を思いっ切り生きてきたのでいつ最期を迎えても悔いはありません」
東京・恵比寿のアルフレックス東京のショールームで。イタリアで学んだ技術を基礎に、日本人の感性や住宅事情に合わせたオリジナルの家具を多く生産・販売している。

東京・恵比寿のアルフレックス東京のショールームで。イタリアで学んだ技術を基礎に、日本人の感性や住宅事情に合わせたオリジナルの家具を多く生産・販売している。

※この記事は『サライ』本誌2019年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──会社の創業から50年を迎えました。

「アルフレックスジャパンを立ち上げたのが昭和44年10月1日、私が27歳のときです。ちょうど半世紀経ちましたね。いろんな方々に支えられて、ここまでやってこられました。中でも大きかったのは、石津謙介さんとの出会いです」

──ヴァン・ジャケットの創業者ですね。

「当時のヴァン・ジャケットは飛ぶ鳥を落とす勢いで、VANのロゴマークは若者たちの人気の的。石津さんはファッション業界のリーダーでした。私は多摩美術大学を卒業して広告デザイン会社に就職し、グラフィックデザインをやっていたんですが、まだ駆け出しで右も左もわからず、とりたてて将来の展望も何もない青年でした。そういう状況の中で石津さんのところでお世話になることになり、いろんなことを教わりました。とくに印象に残っているのは“人の真似をするな”ということ。“男というものは誰かの真似をするんじゃなくて、自分の生きざま、人生というものを自分でつくっていくんだ”という生き方の指針を、言葉以上に身をもって教えてくれた人なんですね。イタリアとの縁ができたのも、石津さんのお蔭です」

──ご自身は京都の生まれですね。

「父親は京都のど真ん中、先斗町の三条側の突き当たり、木屋町三条というところで開業医をやっていました。祖父も医師で、私が後を継げば3代目となるところでした」

──医者になろうとは思わなかった。

「血が駄目なんですよ(笑)。父親よりも母親のほうが、私を医者にしたくてしょうがなかった。中学、高校とそのために勉強づけの毎日を送っていたんですけど、やっぱりどうしても駄目で。高校2年のとき大学進学の話になって、医者は無理だから美術系に進みたいと言ったら、お袋は悲しみましたね。それでもわがままを貫いて、美大に進みました。親の言いつけに背くのだから、アルバイトしながら苦学しました。

親父はどこかで見切りをつけていたようです。あとで知ったのですが、親父自身にも美術志向があった。というのも84歳で医者をやめたあと、親父は突然美術学校へ行って絵を習いはじめて、なかなかいい絵を描くようになったんです。こういう一面があったんだということを、そのとき初めて知りました」

──ヴァンではどんな仕事を。

「宣伝部で、若者たちが好むスポーツやファッションを題材にした大型のポスターにカレンダーを組み込んだカレンダー・ポスターをつくったり、その頃まだ珍しかった、店頭で配布するカーステッカーやキーホルダーなどのノベルティ(景品)をつくったり。海外取材にも、あちこち行かせてもらいました」

──充実した会社員生活を送っていた。

「ところが、そうこうしてるうちに、私自身がファッションというのは今ひとつぴんとこないなと感じてしまった。男のお洒落を追い求めていくのが、どうももともと自分の柄じゃない。と同時に、取材を通して欧米の人たちの豊かな暮らしぶりに接しているうちに、“日本の生活環境はまだまだ未成熟。衣食住の住から、日本人のライフスタイルを変えていくような仕事をしたい”と考えるようになりました。洋風の生活を定着させるんだったら、このまま日本にいたら駄目だなと直観的に感じ、イタリアに行きたいと思いました。石津さんに話をすると大いに賛同してくれて、退職を許してくれた。私はすでに結婚して3歳になる息子がいましたが、妻子を日本に残して単身でイタリアへ向かいました」

──なぜイタリアだったのでしょう。

「お金のあるなしにかかわらず、つねに自分たちの生活を大切にし、一日一日を楽しく豊かに生きようとしているイタリアとイタリア人への憧れがありました。ともかくイタリアに住んで、彼らと一緒に食べ、一緒に仕事をし、生活を一から学びたいと思ったのです。

志賀高原スキー場(長野県)で知り合ったジャンニという愛称のイタリア人の宝石商の友人がいて、ミラノの東にあるリナーテ空港で出迎えてくれました」

イタリア、ミラノのアルフレックスの工場で工場長ブッツィオさん(右)と設計部門部長のプリンチピさん(左)に挟まれた保科さん。ふたりの師匠から家具づくりを仕込まれた。

イタリア、ミラノのアルフレックスの工場で工場長ブッツィオさん(右)と設計部門部長のプリンチピさん(左)に挟まれた保科さん。ふたりの師匠から家具づくりを仕込まれた。

「倒産の危機を救ってくれた方たちに応えようと、24時間働きました」

──現地での具体的な計画はあったのですか。

「ジャンニという友人がいる以外は、仕事のアテもなければ何の見通しもない。外貨の持ち出し制限もあって、持っているのはたった500ドルの現金と、ミラノ市の地図、少しの着替えだけ。イタリア語も“ボン・ジョルノ”ぐらいしか知りませんでした。

ミラノの街を自分の足で歩いているうちにアルフレックスのショップと出会いました。瞬間的に感じるものがありここで家具づくりの修業をしたいと思った。ジャンニに話をすると、元イタリア日本人会会長で幅広い人脈を持つ人を紹介してくれるという。数日後、その人に会いに行くと、傍らにアルフレックスのオーナーと社長が座っていたのです」

──いきなりの入社面接ですか。

「今から考えると、ほんとに運がよかったんだと思うし、よくあんなバカなことができたなと思います。それこそ見えない道がひかれていたように、その道を歩いていったという感じです。それから足かけ3年、アルフレックスの工場でイタリア人の師匠たちに家具づくりと家具ビジネスを叩き込まれました。素人の私を、彼らはほんとに一生懸命、指導してくれた。この男に何かを伝えていくことが、日本の将来、日本のモダンな生活に結びついていくという思想が彼らの中にあったんでしょうね。帰国する際には、極東地域でのアルフレックスの製造ライセンスと販売ライセンスを与え、資本金の40%を出資するから『アルフレックスジャパン』を設立しないかという話が持ち上がりました」

──急展開に戸惑いはなかったのですか。

「小さな手漕ぎボートの漕ぎ方を教わっただけで、まだ見ぬ大海に船出していくような不安がありましたが、彼らの期待に応えてやるぞという奮い立つ気持ちも湧いてきました。石津さんに相談すると全面的な支援をしてくれることになり、東京・四谷を拠点に会社を設立しました。それが50年前でした」

──日本では洋家具はまだ浸透していない。

「百貨店の家具売り場に行くと洋家具なんて何もなくて、嫁入り支度の婚礼3点セットだけずらっと置いてある。布団一対と鏡台、着物を入れるタンス、この3点セットです。公団住宅に洋風のキッチンを入れるということですごく話題になる、そんな時代でした」

──道のないところを切り拓いていった。

「軌道にのせるまでがまず大変でしたが、ともかく私には家具という道具を売るのでなく、ライフスタイルを売っていきたいという思いがありました。座り心地のよいソファを客間でなくリビングに置くことで、家族の日々の暮らしが温かく豊かになる。狭い部屋に大きめのダイニングテーブルを置くことで、ゆったりした食事の時間はもちろん、家事や趣味にも対応できる場所になる。お客様と対話をすることで、家具を通して新しく豊かなライフスタイルを提唱していく。これは今も脈々と引き継がれているわが社の理念です」

──昭和53年にヴァンの倒産がありました。

「子会社という形になっていましたので、大変な事態になりました。ほんとに突然なんです。その日の朝、会議をやってましたら電話がかかってきて、“あ、保科さん、ヴァン・ジャケットの経理ですけど、ヴァン・ジャケットは今日倒産しました”。がちゃんと切られて、全然意味が分からず当惑していると、15分もしないうちに債権者が押しかけてきて、金めのものは全部差し押さえられてしまう。

ところが、債権者の中でもっとも債権額の多い8社の方々が、知らない間に協議してくれて。一生懸命いい仕事をしてるんだから、なんとかこの会社と保科を助けようということで、債権者集会で訴えてくれて、どうにか会社を続けられた。私もそれから4~5年の間は、24時間働きづめに働きました」

東京都内の自宅マンションの書斎で。平成22年、日本におけるイタリアデザインの普及・促進に多大な貢献をした功績で「イタリア連帯の星」勲章『カヴァリエーレ賞』を受章した。

東京都内の自宅マンションの書斎で。平成22年、日本におけるイタリアデザインの普及・促進に多大な貢献をした功績で「イタリア連帯の星」勲章『カヴァリエーレ賞』を受章した。

「世代を超えて長く使い続けてもらえると、家具屋冥利に尽きます」

──今は社長職を退かれ世代交代した。

「息子が早くからこの仕事に興味を持って入社してくれて。39歳でMBAをとるために英国留学して、3年後に帰国した時点で社長の席を譲りました。息子も社員のみんなも創業当初からの理念を理解して、よくやってくれていると思います。困難があっても、逃げるのでなく正々堂々と道の真ん中を歩いていこう。うまくいっているときこそ謙虚さを忘れるな。常日頃、私が言ってきたそんな言葉も、社是として受け継いでくれています」

──父子の間で葛藤はなかったのですか。

「正直、当初は随分ぶつかり合いもありました。見かねた女房から怒られたんです。“任せるんだったら任せる。嫌だったらあなたが復帰すればいい。どっちかになさい”と。

以降、経営には一切口出ししません。私個人の事務所を構えて、家具や照明器具のデザインを手がけています。10年ほど前に北海道旭川につくった直営工場にはよく足を運び、求められると意見を言ったりはしていますけれどね。近年は、30年前、40年前にお買い求めいただいた商品のメンテナンス(修繕)にも力を入れています。娘がこのソファの上でオムツを替えて育って、結婚するにあたって、どうしても持っていきたいというので綺麗に張り替えてもらいたい、といった注文も増えています。家具屋冥利に尽きる話です」

平成20年に北海道の旭川に建てた自社工場には、今もよく足を運ぶ。創業当初に製作した家具の型紙も大切に保管され、修繕等の際に役立てられている。

平成20年に北海道の旭川に建てた自社工場には、今もよく足を運ぶ。創業当初に製作した家具の型紙も大切に保管され、修繕等の際に役立てられている。

──健康のために何か実践していますか。

「ゴルフが趣味で、毎週のように女房と出かけるんですが、このときできるだけカートを使わずに歩いています。これが結構な運動で健康維持に役立っていると思います」

──やがて訪れる死について思うところは。

「私の親父が94 歳で亡くなったんですが、亡くなる前日、たまたま私が京都に仕事があって妹夫婦が一緒に暮らしてる実家に帰ったんです。それで親父に会って、“親父さん、久しぶりに帰ってきたよ。子供や孫たちも元気に成長してきているから、もうちょっと長生きしてね”と言ったら、頷いてくれたんですね。その次の日に眠るように亡くなった。あとから妹に聞くと、親父は半年前に近所の知り合いの医者のところへ行って、“自分はもう死期が近づいてるが病院には入りたくない。自宅で死ぬから死亡診断書を書いてくれ”と頼んでたんです。親父は自分が納得するような死に方を選んで、最後に私と言葉を交わして手を握って、すうっと自然に息を引き取った。ひとつの理想かもしれませんね」

──自分もそんなふうでありたいと。

「病院でチューブにつながれた延命治療などは、私も御免です。極端な話、私はもの心ついてからこの方、いつ死んでもいいと思ってやってきました。それだけ毎日、思いっ切り生きてやろうと。とにかく今日、この元気な間に、自分がやりたいことはできるだけやっておきたいという思いで日々生きています」

東京・恵比寿のショールームの一角で、社員を相手にてきぱきと打ち合わせをこなす。身のこなしも軽やかで、喜寿という年齢を感じさせない若々しさが漂っている。

東京・恵比寿のショールームの一角で、社員を相手にてきぱきと打ち合わせをこなす。身のこなしも軽やかで、喜寿という年齢を感じさせない若々しさが漂っている。

──残された時間で成し遂げたいことは。

「会社や孫たちの将来への思いは別とすれば、個人的にはゴルフでエージシュートを達成したいという夢があります。ゴルフは、ワンラウンド回るとパーは72。エージシュートというのは、自分の年齢と同じ数字でワンラウンド回ることです。これができたらゴルフ仲間からものすごく賞賛される。願わくば80歳ぐらいのときに達成して、自分の好きな絵を描き添えて“お蔭様でエージシューター、80を成し遂げました。これでもうなんの未練もありません”という感謝状を皆に送りたい。精一杯仕事してきて、プライベートでもやりたいことは何でも挑戦し、失敗も多く経験しましたから、あとはそれくらいのささやかな夢でいい」(笑)

長男である保科卓社長(右端)の自宅で、家族に囲まれて寛いだ昼食のひとときを過ごす。親しい客人を招いての食事会などもよく催す。人生を愉しむのがモットー。

長男である保科卓社長(右端)の自宅で、家族に囲まれて寛いだ昼食のひとときを過ごす。親しい客人を招いての食事会などもよく催す。人生を愉しむのがモットー。

保科 正(ほしな・ただし)昭和17年、京都生まれ。多摩美術大学卒業。広告デザイン会社を経てヴァン・ジャケットに入社し石津謙介の薫陶を受ける。昭和42年、イタリアに渡り、アルフレックス社で家具づくりを修業。帰国後、27歳でアルフレックスジャパンを設立。「家具を通してライフスタイルを提案する」という独自の理念で、確かな業績を築く。現在、同社顧問。デザイン会社、C.O.D.社代表取締役。

※この記事は『サライ』本誌2019年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工

 

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