2019年1月2日・3日の新春時代劇(NHK)での初のドラマ化により、再び注目が集まる直木賞作家・門井慶喜氏の『家康、江戸を建てる』。今回は「サライの江戸」シリーズ第1弾『江戸城と大奥』のために行われた城郭研究の第一人者・奈良大学千田嘉博教授との対談から、家康が作った初代江戸城の謎に迫る!
門井 (東海の5か国から関東に移封されて以降)家康は力を入れて江戸の町を造っていくのですが、私が面白いと思うのは、実際には家康は江戸にいなかったことですね。伏見にいた。遠隔操作というわけです。
千田 大坂城は豊臣家の「私」の城であって、関白政権の「公」の城は聚楽第と伏見城でした。つまり秀吉が死去した時は、伏見こそが日本の首都だったのです。そこに家康がいて諸大名を指揮していた。「公」の政治を行なっている正当性を示すために、家康としても伏見を離れられなかったのでしょう。
門井 2代目の伏見城主として家康は天下人の姿を見せようとしていた。伏見は京都から距離的には近いのですが、当時の伏見は、まあ新開地ですね。京都は平安時代に造られた町、伏見は秀吉の時代に造られた町で、明確な違いがあると思うのです。そして伏見城と大坂城、そして江戸城の3つに共通するのが何かといいますと、全部川を「はけ」て造っているのです。つまりある水準の治水技術がないと成立しない城であったということは、強調していいかと思うのです。
それから私の素朴な疑問なのですが、この3つの町を比べた時に、伏見と大坂はどちらもきれいな碁盤の目でした。この2つに限らず萩や新潟など、近世都市で一から埋め立てて造られた街は碁盤の目になっています。
ところが江戸の町はそうではない。日本で一番大きな町が、日本で一番の例外になってしまった(笑)。これはなぜなのだろうと、前から疑問に思っていました。江戸はもともと太田道灌が造った城があり、それが我々が考える以上に堀や町割りがしっかりしていたのではないか。なので家康の時代にはある程度、それを踏襲せざるを得なかったのではないかと、いうのが私の想像です。
千田 確かに江戸の町は日本橋のあたりは入り江を埋め立てて、部分的には碁盤の目がありますが、あとは地形の影響などを受けてずいぶんと変則的です。それと家康以前の江戸は寒村で何もないといわれてきましたが、近年の研究では水運の拠点になっていて、それなりの都市であり、 湊が栄えていたようです。それらが家康の町造りに影響を与えたことは充分ありうることだと思います。
門井 私は近代建築が好きで作家の万城目学さんといろいろ回ったりしているのですが、いろんな都市を比べてみると空襲があるかどうかによって大きな違いがありますね。空襲がなかった地域は京都がそうですが、当然ながら残される建物が多い。しかし東京の場合は、3つの大きな被害を受けています。それは関東大震災、東京大空襲、東京オリンピック。1964年のオリンピックで相当東京の街並みはつぶされています。
千田 普通の城は惣構えが周囲を囲い込む閉じた形をしていたのですが、江戸城の場合は天守を起点に「の」の字型で螺旋形をしていました。街が発展していくに従って、惣構えも発展していき、成長を止めない形になっていたのは、先見の明があったと思います。例えば家康も何度も入城して戦った愛知県清須城は、完全に閉じた惣構えをしていました。のちに家康の九男・徳川義直が入城したのですが、その時の様子を調べてみると武家屋敷を城の周囲に置くことができず、城下町のはずれに武家屋敷を配置したり、あるいは城の横に商業地区があったりとか、土地がないためにめちゃくちゃな状況になっていたのがわかります。守りという点で惣構えを閉じた形は強いのですが、都市が発展していくためにはそれが足枷になった。家康はそれを見ていましたので、江戸ではどこまでも発展していける螺旋形の惣構えを採用したのではないかと思います。
門井 家康は伏見城にいながら、プロデューサーとして細かく指示を出していたのでしょうね。
千田 愛知県の清須城から名古屋城に移った時には、大工棟梁の中井正清が細かく家康の意向を確認していました。恐らく江戸城の時も家康は、図面をもとに細かい指示を出していたと想像されます。
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