【サライ・インタビュー】

今井恭司さん
(いまい・きょうじ、写真家)

――日本サッカー殿堂入り、10度目のワールドカップ取材へ

「サッカーと歩んで半世紀。“もっといい一枚”を目指して、これからも撮り続けます」

カメラを手に、刻々と変化する試合状況を鋭い眼光で見つめる。「目はカメラマンの命。動く電車の中や寝床で本は読まないようにしてきました。そのお蔭か今も視力は衰えていません」

※この記事は『サライ』本誌2018年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──サッカーW杯ロシア大会が始まります。

「僕は1982年のスペイン大会から撮影していますから、ワールドカップは今度でちょうど10回目になります。旧ソ連時代のウズベキスタンやカザフスタンに行ったことはありますが、ロシアは今回が初めてです。国土が広く、各試合会場への移動距離も長く、内陸は寒暖差も大きいようなので、うまく対処できるようにしたいと考えています。撮影機材と体の状態を万全に整えて現場に臨むのが、
カメラマンとして最も大切な基本ですから」

──日本代表は6大会連続の本戦出場です。

「僕がサッカーを撮り始めた40数年前は、日本がワールドカップに出られるなんて夢にも思いませんでした。自分が仕事をしている間は絶対にないだろう、と思うぐらい世界とはレベルの差がありました。今は違います。目標は高く、優勝を目指して頑張ってもらいたいですね」

──初心者でも楽しめるサッカーの見方を。

「見方はいろいろあると思いますが、好きな選手をひとり見続けることをお奨めします。応援したい選手をひとり決め、その選手を中心に試合を見ていくんです。そうするとサッカーにあまり馴染みのない人でも、試合の流れがわかりやすいんですよ。選手を好きになるとっかかりは、顔や走る姿が格好いいとか、出身地が同じだとか、なんでもいいんです。でも、そういう選手がいるとサッカーに親しみが湧きますし、何よりもその選手を追いかけて見ているうちに、自然とサッカーの面白さがわかってきます」

20代の頃、日本チームに同行して旧ユーゴスラビア(現・クロアチア)のリエカに遠征したときの身分証。撮影をするだけでなく、チームスタッフの一員のような役割もこなした。

──最初にカメラを持ったのはいつですか。

「自分自身でカメラを初めて買ったのは高校に入った頃です。でも、実は小学4年生のとき親に買ってもらったことがあるんですよ。カメラはまだ貴重品で、どこにでもあるような時代ではありませんでした。ところが、僕はそれを鷹と取り換えてしまったんです」

──空を飛ぶ、鳥の鷹ですか。

「そうです。僕が生まれ育ったのは新潟県刈羽郡高柳町(現・柏崎市高柳町)。雪深い所で、冬場は積雪が2mを超えるんです。今は交通の便もだいぶよくなりましたが、その頃は除雪車なんて来ませんから流通がよく滞りました。新聞は日付通りに届かないし、お歳暮に送られた箱入りのミカンが届いたときには腐っていたなんてこともありました。

僕は6人兄弟の末っ子で、野山を駆け回って育ちました。そんな環境ですから、森に入れば鷹もいる。近所のふたつ年上の遊び仲間が子供の鷹を捕まえてきたとき、僕はそれが欲しくて欲しくてね。“カメラとなら交換してやるよ”なんてうまく言いくるめられて、子供だから価値もよくわからないまま鷹と交換してしまったんです。そのことを親にも誰にも言えなくて。

鷹はしばらく家で飼っていたんですが、夜になると寝ている父親の枕元へ行ったり、探しに来た親の鷹が家の周りで始終鳴いたりして大変でした。結局、数十日間飼うと、裏山の神社で放してやりました。カメラはなくなるし、鷹はいなくなるで、散々でした(笑)。

高校を卒業すると、東京写真大学(現・東京工芸大学)に進みました」

──カメラマンを目指したわけですね。

「写真は嫌いじゃなかったけれど、本当は新聞記者になりたかったんです。その頃、田舎で見かけた新聞記者は皆、大きなカメラを抱えていました。写真を勉強したら、自分もそういう仕事に就けるんじゃないかと漠然と考えていたのです。ところが、入学してみると写真の勉強は難しいし、きちんと取り組んでいかなければいけない。卒業後は、広告写真を撮影している先生のところへ内弟子のよう
な形で入り、写真の仕事を始めました」

──どんな写真を撮っていたのですか。

「僕が仕事を始めたのはちょうど大阪万博の前で、カメラを担いで万博会場にも行きました。建設重機メーカーの依頼で、そのメーカーの建設機械が稼働しているところを撮影してポスターやカレンダーに使うんです。スーパーやデパートのチラシの仕事も随分やりました。地下のスタジオにこもって、食品から洋服まで様々な商品を1日に150点くらい撮るんです。次の日の朝、デザイナーさんが
来たときに写真を渡さなければいけなかったから、徹夜で撮影しました。昼間は昼間で、スタジオに運べない家具などの大きな商品を撮りに行く毎日で、本当に忙しかった」

「代表の合宿でも選手は大部屋で雑魚寝。W杯なんて夢の夢でした」

実業団チーム古河電工の時代から、流れを継ぐジェフユナイテッド市原・千葉の公式カメラマンを25年以上続けている。サポーターとも顔馴染み。試合開始前に握手を交わす。

──サッカーを撮り始めたきっかけは。

「たまたま、サッカー専門誌の編集者と知り合ったのが始まりです。最初は“土日に、暇だったらちょっと手伝ってくれないか”と言われ、気軽な気持ちで試合会場に行き始めました。転機になったのは1972年5月。ペレがいたブラジルの名門クラブ、サントスFCが来日して国立競技場で日本選抜と試合をしたんです。ペレといえば“サッカーの王様”です。野球にたとえればベーブ・ルースみたいなもです。この試合を撮影したことが、僕のサッカーカメラマンとしての原点になりました。

翌年の1973年は石油ショックで広告写真の仕事が激減し、先生のスタジオも畳むことになり独立してフリーランスで活動を始めました」

──それから本格的にサッカーを撮り始めた。

「試合中の写真だけじゃなく、インタビューの際の撮影なども増えていきました。最初は編集者と一緒に行き、編集者が話を聞いている合間に顔写真を撮っていましたが、もともと編集部の人手が足りないものですからそのうち“話も聞いてきてよ”ということになり記事も書くようになりました。数年後には、国内外に遠征する日本チームを追い、カメラマン兼記者として同行するようになりました。
当時はサッカーを取材するカメラマンや記者の数はごく限られていましたから、自然と選手や関係者とは親しくなりました」

試合撮影には長さの異なるレンズを装着した4台のカメラを用意。長年の仕事で両膝関節の軟骨は磨耗し切っているが、周囲の筋肉で負担を補う。

──その頃の日本サッカーの状況は。

「まだJリーグが発足する前で、実業団による日本リーグが大企業の福利厚生の一環として行なわれていた時代です。お客さんも集まらないし予算もないから、試合は週末に同じ会場で集中して開催されました。照明施設のない競技場も多く、あっても照明をつけるとお金がかかるので余裕のないスケジュールで試合が組まれます。こんな出来事もありました。あるとき、午前中の試合が延長になって
昼休みがつぶれ、すぐに次の試合が始まってしまった。お昼に食べようと、記者仲間とカツ丼の出前を頼んでいましたが試合が始まり、グラウンドから出られなくなってしまった。仕方なく、ゴールの後方でカメラを構えながらカツ丼を傍らに置き、ボールが向こうにいってる間に素早くかき込んだ(笑)。今では、とても考えられないことです」

── 長閑な時代だったんですね。

「日本代表の合宿も、千葉にあった東京大学の施設を借りてやっていました。グラウンドに併設された合宿所の大部屋に、選手全員が雑魚寝で泊まり込みながら練習をするんです。広い敷地の中に何面もグラウンドがあって、隣で大学生が練習していたりする。食堂のメニューも学生と一緒で、おかず1品にご飯と味噌汁、漬物。肉なんて出てこない。ただ、代表選手には特別に牛乳が1本ついてました。

洗濯も、選手が個々に練習の合間にやりました。当時はサッカー用のインナー(下着)が付いた短パンもスパッツ(膝まで覆うカバー)もありません。選手たちは皆、サッカーパンツの下に女性用の下着をはいていた。それを知らずに大部屋へ入り、物干し用のロープに吊るされていた洗濯物を見てびっくり、なんて笑い話もありました。僕もサッカーの写真だけでは食べられないので他の仕事と掛
け持ちをし、無理が重なって体を壊して、半年間の入院と療養生活を余儀なくされました」

──やがて、Jリーグが発足します。

「1993年にJリーグが始まると、サッカーの人気が一気に高まり、選手の意識も変わりました。プロリーグになる前の時代の人たちは、大きな会社に入って好きなサッカーをやる。その中でレベルアップできたらいいなという考えで、海外に出ていって挑戦しようなんていう人は、ほとんどいませんでした。プロ化して外国人の選手や監督も入ってきて、練習方法や外国の実状を吸収しました。技術
も考え方も飛躍的に進化し、若い選手たちが海外へどんどん出るようになった。時代も環境も変わり、今は日本にいながら放送で海外のトップレベルの試合をいつでも見られますし、子供たちの夢も大きく膨らんでいます」

自身撮影の最も印象に残る1枚。日本代表が初めてW杯に出場した1998年フランス大会初戦(アルゼンチン戦)を捉えた。日本サッカーの世界への挑戦が始まった。

「死ぬ前にパンツ1枚だけを持ってハワイへ行きたいと思っています」

──サッカーを観戦するファンも増えました。

「観客が多くなれば、チームに入る収入も増加します。それを施設の整備、選手のトレーニングや健康管理、怪我の予防などの予算に回していける。いい方へ、いい方へと循環していくわけです。以前は、学生のときだけサッカーをやって卒業と同時に止めていた若者たちが、食べていけるとなれば続けるし、より一生懸命やるようになってくる。すると、いい選手がたくさん残り、その中でさらに抜
きんでた選手は海外へ行って活躍をします。その活躍を見た、下の世代が上がってくる」

──撮影の際に気をつけていることは。

「そのときどきの依頼次第ですが、相手が僕にどういう写真を求めているのかは、当然、意識しています。1枚だけ使うのか、何枚か使うのなら起承転結も考えますし。ただ、相手は動くものだから、事前にすべては決めづらい。あとで使い勝手がいいように、写真にはできるだけボールと全身を入れるよう心がけています。

また、被写体である選手のことを常に考えています。選手や、その家族が嫌がるような写真は撮りませんし、撮れても出さないというのが僕の考え方です。例えば、試合中に怪我をしてしまった写真は、あまり出してほしくないと思うんです。負けてうなだれているような姿も、正面からしつこく撮らないで、後ろからそっと撮るとかね」

──日本サッカー殿堂に入りました。

「初めは“僕でいいのかな”と思いました。僕らのようなカメラマンが殿堂に入れるとは思っていなかったし。でも、日本サッカーが不遇の時代からずっと家族のように一緒に歩んできて、もうすぐ半世紀。写真という分野を通じて、サッカーとファンをつなぐことに自分なりに貢献できた。それを考えると、続けてきてよかったという思いはあります。いろんな人に助けられてやってこれたから、殿
堂入りも感謝しかないです」

──健康維持のため気遣いしていることは。

「仕事で身体は動かしているので、一番気を付けているのは食事です。特に朝ご飯はきちんと食べるようにしています。僕らの仕事は、昼食が夕方にずれ込むこともあるし、食べられないときもあります。食事は女房任せです。朝がどんなに早かろうが、必ず起きて準備をしてくれる。本当に頭が下がります」

──まだまだ撮り続けますか。

「足腰と目が丈夫なうちは続けたいと思っています。常に“もっといい1枚”を撮りたいという気持ちがあるので。目安として、自分で自分の機材が担げなくなったらやめどきだと考えています。撮影用の機材は合わせておよそ25kgありますが、これを担いで身軽に動けなくなったら引退です」

──人生の終焉について思うところは。

「特別、死そのものについて考えているわけではありませんが、僕はいつも家族に“死ぬ前に着替えのパンツを1枚だけ持ってハワイに行きたい”と言ってるんです。これまで、仕事で世界中を駆け回ってきましたが、ハワイには行ったことがない。それに、海外へ行くときは仕事でいつも重たい機材を担いでいます。身軽なハワイ旅行は、ぜひ実現したい夢なんです」

東京・護国寺にある、自身が代表を務める事務所で。今までに撮影した数十万枚のフィルムを保管している。1試合で撮影する写真の枚数は、約2000枚にのぼるという。

●今井恭司(いまい・きょうじ)昭和21年、新潟県生まれ。東京写真大学(現・東京工芸大学)卒業。『サッカーマガジン』誌の依頼を受けてサッカー関連の写真撮影を始める。昭和47年、サントスFC(ブラジル)対日本選抜戦の試合撮影からサッカーカメラマンとして本格的に始動。以降、日本代表や日本ユース代表の海外遠征公式カメラマンを務めるなど、国内外で活躍。昨年8月、日本サッカー殿堂入りを果たす。

※この記事は『サライ』本誌2018年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

 

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