【サライ・インタビュー】

北見けんいちさん
(きたみ・けんいち、漫画家)

――『釣りバカ日誌』を描き続けて39年

「企業戦士が全盛の時代、出世と無縁のサラリーマンをあえて主人公にすえました」

北見さんの『釣りバカ日誌』(ビックコミックオリジナル/小学館)は連載40年目前の国民的人気漫画。朝は10時起床で深夜2時就寝まで仕事に打ち込む日々だ。

※この記事は『サライ』本誌2018年9月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──京都・大徳寺の襖絵を制作中です。

「一休さんに縁の深い京都・大徳寺の真珠庵が、400年ぶりに襖絵を新しくすることになりましてね。ご住職の山田宗正さんから、従来の重要文化財の襖絵に代わるものを描いてほしいと、僕を含めて映画監督の山賀博之さん、イラストレーターの伊野孝行さんなど6人が絵師として指名されたんです。僕の担当は襖絵16面で、“楽園”というテーマで描いてます。この9月1日からの公開(※9月1日〜12月16日に公開(10月19日〜21日は拝観休止)。拝観料1200円 大徳寺 電話:075・491・0019)に間に合うよう、ここ3か月は京都へ出かけて描いては、また東京へ戻る暮らしです」

──“楽園”をテーマにした理由は。

「昔も今も僕にとっての一番の楽園は与論島(鹿児島県)で、島での宴会風景を描きました。与論島は、昭和47年に沖縄が返還されるまでは日本最南端の島で、パスポートの要らない熱帯の島でした。僕が最初に出かけたのは昭和36年。写真学校に通っていた20歳のときです。卒業制作の写真を撮ろうと学生3人で公民館に1か月間寝泊まりさせてもらい、すっかり島の自然と人情に魅せられました。今では小さな終の棲処も確保し、年に5回くらい家族や仕事の仲間たちと出かけて宴会をしています。

大徳寺のご住職・山田宗正さんも、ここ10年、一緒に与論島へ出かける仲間です。ですから、僕が襖絵のテーマを与論島の“楽園”にしたとき“いいね”と意見が一致しました」

──描く上で大変なことは何でしょう。

「去年の暮れから取りかかったんですが、当初は木を描くだけで10日かかりました。何しろこれだけ大きなものを描くのは初めてです。漫画を描くのと違い、体勢が辛くて。とにかく大きいので、手が届かないところが出てきちゃう。だから台の上にのせたり、壁に立てかけたり、床に置いて描いてみたりしますが、僕ももう老人なので、無理な体勢だと身体が固まって苦しくなっちゃう」

──襖絵には仲間も登場するのですね。

「宗正さんをはじめ、友人たちをたくさん描きました。10年近く前に亡くなった、うちのカミさんもちょこっと顔を出してます。

ただ、今年は襖絵の制作があって、僕の楽園である与論島になかなか行けない。そろそろ禁断症状が出始めてます」(笑)

──お生まれは満州です。

「父親は大日本印刷にいて、仕事で満州(現・中国東北部)の新京(現・長春)へ行きました。僕はそこで生まれ、日本に引き揚げてきたのは5歳のとき。お袋は浅草、父親は築地の出身だからふたりとも江戸っ子なのに、僕は江戸っ子といいたくても言えない(笑)。

満州のことは、あまり憶えていません。父親は終戦5日前の昭和20年8月10日に召集され、たった5日間だけの兵隊なのに、シベリアで5年も抑留されました。もっとも、僕自身は“お父ちゃんが、いつの間にかいなくなった”という感じでして。だから、玉音放送も憶えていないんです」

──引き揚げは大変だったでしょうね。

「ソ満国境から逃げてきた人たちは酷い目に遭っていますが、新京は日本人が大勢集まって暮らしていたから、そこまでの混乱はなかった。それでも、道の側溝には頭に穴の開いた死体が横たわっていたし、小学校の校庭に掘った穴へ遺体を投げ入れる光景も見ました。緑色のソ連軍の戦車が町に入ってきたときは、家の隙間からのぞいて見てました。

お袋と弟の3人での日本へ帰る逃避行の際は、お袋が髪を切って男の格好をしていました。屋根のない貨車に大勢が乗り、昭和21年9月の引き揚げ船に乗り、舞鶴(京都府)の近くまで帰ってきたのに死んじゃう人がいて、遺体を海に捨てた光景は鮮明に憶えています」

──満州で育った漫画家は多いそうですね。

「不思議な縁ですが、ちばてつや先生と、僕が弟子入りをした赤塚不二夫先生は同じ奉天(現・瀋陽市)の町にいたんです。僕が『釣りバカ日誌』を描き始めて間もない昭和55年に、故郷を探訪しようと漫画家仲間で中国へ行ったときにわかったんですが、ふたりが住んでいた家は80mも離れていなかった。

僕の兄弟子の古谷三敏さんも奉天の生まれで、お父さんはお寿司屋さんをやっていた。森田拳次さんも奉天です。みんな終戦時に6歳から9歳くらい。同じ町の子だから、絶対にどこかですれ違っていたはずです」

──漫画との出会いはいつ頃ですか。

「小学生のときから漫画が好きだったんです。『おもしろブック』とか、少し大きくなってからは『少年』とか。当時は、漫画が子供の一番の楽しみで“将来、何になりたい?”って聞けば、クラスの半数くらいが“漫画家!”って答えたものです。今でいえば、サッカー選手に匹敵する人気だったのかな」(笑)

──ご自分でも描かれたんですか。

「父親が印刷会社にいたので、画を描く紙にはよその子より恵まれていました。ヤレ紙、っていう印刷のテストに使った紙を持って帰ってきてくれるんです。図鑑なんかを印刷した紙は自分で大事に綴じていました。

でも“漫画家になる”なんて言ったら親に大反対される時代でね。世間では“漫画を読むと馬鹿になる”なんて言われてました。お袋にも“漫画家なんて、バカのもとを描く仕事は世間さまに顔向けができない”って言われました。それで“写真屋ならどうだ”って聞いたんです。実は僕は写真も好きで、高校生のときは写真部にいましたから。そしたら“写真屋なら人さまに顔向けできるからいい”って」(笑)

写真が趣味で、写真館を開いた時期も。愛用の機種は100台を超える。今も暇を見つけては、カメラを手に出歩く。手にするのは北見さんの生まれ年に製造されたライカIIIc。

「馬鹿馬鹿しいことを本気で愉しむ。それが赤塚作品の原動力でした」

──一度は漫画家をあきらめたのですか。

「高校を出て就職した会社を辞め、写真の専門学校に通い、自分の写真館を開いたんです。21歳でした。埼玉県の鶴瀬ってとこだったんですが、その町には写真屋さんがなかった。喫茶店もなくて、インスタントコーヒーを自由に飲めるようにしたら、人が来るわ来るわ。遠足や運動会、修学旅行で撮ったフィルムがどんどん持ち込まれた。仕事は順調でしたけど、漫画家の道は捨てきれなくてね。昼間は写真屋をやりながら、夜は暗室で漫画の原稿を描いていた。今でいう二刀流です」(笑)

──赤塚不二夫さんとの出会いの経緯は。

「その頃に描いた8枚ほどの漫画の原稿を小学館の『少年サンデー』編集部に持ち込みをしたんです。でも、1回目は勇気が出なくて帰ってきた。2回目は会社の前に立ったまま日が暮れた。3回目にやっと受付まで行けたんですが、出てきた編集の人は僕の原稿を見るなり“下手だね”のひと言(笑)

ところが、その編集の人が赤塚先生の『フジオ・プロ』にアシスタントとして僕を紹介してくれたんです。その頃、赤塚先生は新大久保(新宿区)の第3さつき荘というアパートを借りていたんですが『おそ松くん』で人気が出始めていて、忙しくなっていた。古谷三敏さん、高井研一郎さんもいたんですけど、まだ手が足りなくて。正式に僕の弟子入りが決まったのは昭和39年1月。そこから人生が変わり、漫画家としての第一歩を踏み出した」

──お母さんは反対しなかったのですか。

「それがおかしいんだけど、僕が赤塚先生のアシスタントになって間もなく、『おそ松くん』に出てくるイヤミの“シェー!”というポーズが爆発的な人気になりました。そうしたら、あれだけ反対していたお袋が“うちの息子はシェー!の先生のところにいます”って自慢気に言いふらしていた」(笑)

昭和39年頃。『おそ松くん』の連載で売れっ子になっていた赤塚不二夫のアシスタントになり、念願の漫画家への第一歩を踏み出した。「まだ酒も煙草もやらない好青年でした」

──フジオ・プロは悪戯好きが多かったとか。

「そうなんです。悪戯が大好きなスタッフが集まっていた。僕がトイレに入っていると、天井とドアの隙間からバケツで水を浴びせる。ずぶぬれになった姿を見て、みんなは大喜び。だから、トイレでは傘をさして水をかけられるのを待っていて濡れずに仕事場へ戻ると、それはそれで大喝采でした」(笑)

──やり返したのですか。

「もちろん。やられっぱなしじゃなく、僕もしっかり仕返しはしましたよ。

昭和40年代の一時期、おもちゃの銀ダマ鉄砲での撃ち合いが流行りましてね。赤塚先生が言い出しっぺで、スタッフが二手に分かれると、バネ仕掛けの鉄砲で粘土でできた銀色の弾を撃ち合って遊ぶんです。新築したばかりの先生の家に行って、30過ぎのいい大人たちがワーワー、キャーキャー。それも先生が“服を着てたら痛くないから、上半身裸になって撃ち合え”って。お陰で銀ダマが当たると本当に痛い!(笑)。人さまから見ればただ馬鹿馬鹿しいことを僕たちは本気で愉しんでいた。でも、それがヒット作を次々と生み出した赤塚作品の原動力だったんです」

この日は『ビッグコミック』(小学館)に連載中の『北見けんいちの昭和トラベラー』の締め切り日。昭和の出来事と風景を丁寧な筆致で描く。

「ペースメーカーの性能が良すぎて、簡単には死ねないらしいです」(笑)

──『釣りバカ日誌』が来年で連載40年です。

「昭和54年(1979)に始まりましたから来年で40周年です。今度出る単行本が100巻目。原作のやまさき十三さんと担当してくれた編集者のお陰です。連載のきっかけは、草野球チームの助っ人に駆り出されたら、対戦相手が小学館のチームでね。試合が終わり、編集の人から“ケンちゃん、うちで仕事をしてみないか”と声をかけられた。それが『ビッグコミックオリジナル』の増刊号で始まるやまさき十三さん原作の『釣りバカ日誌』の話だったんです。漫画家の候補は、僕以外に3人いたそうです。だから、草野球の助っ人に行ってなかったら、僕じゃなかったのかもしれない。人の運命なんてわかりませんね。

当時は草野球が同業の連中のコミュニケーションの場になっていて、結構、大事な付き合いでした。やまさき十三さんと仕事をするのは初めてでしたが、草野球で敵のチームにいたりして、顔見知りだったんです」

──大ヒットした秘密は何でしょう。

「当時は今と違い、企業戦士とか、猛烈社員がもてはやされていたでしょう。そこで釣りバカの浜崎伝助みたいなのが際立ったら面白いんじゃないかって。加えて、彼が自分の会社の社長の顔を知らないで仲良くなる設定のサラリーマン漫画にしたらどうかと。そうしたら、人気が出たんです。

釣りバカが始まった頃は『浮浪雲』『あぶさん』『三丁目の夕日』が『ビッグコミックオリジナル』で人気のビッグスリー。それは人気投票で絶対に抜けないけれど、上位5番手くらいまでに入れれば連載を切られることはないと言われてスタートしたわけですけどね」

──実写版の映画もヒットしました。

「映画化の話は、連載が始まって間もない頃からあったそうです。それも、正月公開の名物シリーズ『男はつらいよ』と併映ですからこれは嬉しかった。平成21年までに全22作が作られたんですけど、10作目に原作のやまさき十三さんと僕が記念に出演してるんですよ。僕が映っているのは、三國連太郎さん演じるスーさんとレストランですれ違うほんの1〜2秒のシーンですけど。すっかり舞い上がっちゃって。なんだか、夢でも見ているような気分でした」(笑)

──ご自身でも釣りはやりますか。

「それが、まったくやらなかったんですけどね。今は与論島でカヌーを買ったものですから、海へよく出てルアーを投げます。すると、ハタの仲間のミーバイって魚が釣れるので、それを唐揚げにして食べてます」

──仕事はまだまだ続けますか。

「仕事を切られない限りは続けますよ。漫画家って、誰もが仕事を切られるのが一番の恐怖なんです。僕も切られたことがしょっちゅうありますから。ちょっとでも原稿が遅れると“もう、いいや。連載終わりね”っていう編集者もいた(笑)。そういう過去があるので、いまだに僕は仕事を切られる夢を見て、夜中に焦って跳ね起きたりします」(笑)

漫画家は運動不足になりやすい。ときに仕事場の健康機器で身体を鍛え、ほぐす。「僕の終の棲処がある与論島の楽園で寛ぐ。それが一番の健康法です」

──身体の具合はいかがですか。

「実は糖尿病と高血圧と心不全がありましてね。本当は玉子は半分とか、アジの開きも半分とかって、食事制限をしなくちゃいけないみたいなんですけど、守っていませんねえ(笑)。去年の4月に、心臓にペースメーカーを入れてもらってからは調子がいいですけど。

最近は仕事の仲間や友人、知人など亡くなる人が多いし、僕自身はなぜかこうやって取材されることが増えてきて、僕も空の楽園に行く日が近いのかなと思うけど。でも、このペースメーカーにはすごい機能がついていて、心臓が止まってもマッサージ機能がすぐに作動して蘇生復活させるんだって。どうも、そう簡単には死ねないらしいです」(笑)

●北見けんいち(きたみ・けんいち)昭和15年、旧満州・新京生まれ。昭和21年、日本に引き揚げ、東京の下町で育つ。多摩美術大学付属芸術学園卒。昭和39年、赤塚不二夫のアシスタントに。同54年『釣りバカ日誌』(原作・やまさき十三)の連載開始。同作は映画化、テレビアニメ化、ドラマ化で国民的な人気に。日本漫画家協会賞、文部科学大臣賞他を受賞。『焼けあとの元気くん』『愛いとしのチイパッパ』など代表作多数。

※この記事は『サライ』本誌2018年9月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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