【サライ・インタビュー】

伊東四朗さん
(いとう・しろう、喜劇役者)

――芸歴60年。舞台でのコントが芸の原点

「おごれる者もひさしからず。『平家物語』の一節が人生の歯止めになっています」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2018年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

──今年で芸能生活60年を迎えました。

「自分でも“よく、ここまで来られたな”と思います。本当に不思議です」

──なぜ「不思議」なのでしょう。

「だって、この見た目ですよ? 昔、石原裕次郎さんに憧れましてね。映画もよく観に行きました。映画館を出ると、裕次郎さんになりきって通りのショーウィンドーの前で格好をつけるわけですが、そこに映る自分の姿が情けない。足は短いし、顔は四角い」(笑)

──喜劇役者になったきっかけは。

「私、こんな顔じゃなかったらサラリーマンになっていました。勤め人になるのが親孝行だろうと就職試験を受けたんですが、ことごとく弾かれましてね。見かねた友達が、親の会社を紹介してくれました。コネ入社を目論んだわけですが、そこでも“人相が悪い”と面接で落とされた。コネがあるのに落ちるって、とさすがにこの顔を恨みました(笑)。仕方なく大学の生協でアルバイトを始めたんですが、その時に足繁く通ったのが歌舞伎座とストリップ劇場です。ストリップといっても合間の軽演劇が目当てでした。で、この顔でしょ? 通ううちに顔を覚えられて、楽屋に呼ばれるようになった。そのうち石井均さんが新しい一座を旗揚げすることになり、その座員に誘われました。21歳の時です。そんな偶然が積み重なってのあれよあれよの60年ですから、自分でも本当に不思議です」

──「この世界でやれる」と思ったのは。

「25歳の時、三波伸介さん、戸塚睦夫さんと『てんぷくトリオ』を結成し、といっても成り行き任せのいい加減なもんでしたが、ある時、坂本九さんの『九ちゃん!』(日本テレビ)という番組に呼ばれたんです。私たちの泥臭い芸になぜ声がかかったのか、今もってわかりません。プロデューサーが厳しい人で、踊らせるわ、英語の歌を歌わせるわ、と大変でしたがバイオリンを弾けと言われた時は参りました。結婚して子どもが生まれたばかりで、アパートの6階で弾くと赤ん坊が泣くんです。
女房に“外でやってくれ”と言われて裏の墓場で練習したんだけど、通りがかった人は驚いただろうな。でも、この番組で世間に認知され、芸の幅も広がったんです」

──音楽の素養はあったんですか。

「あるわけないでしょ(笑)。必死にやったんですよ。でも、思い返してみると音楽好きではあったんでしょうね。親父が三味線をつま弾く人で、お袋も家では一日中鼻歌を歌ってました。私が2〜3歳頃ですが、お袋が買い物中に“ハア〜島で〜育てば〜”と小唄勝太郎の『島の娘』がどこからか聞こえてきた。誰が歌ってるんだろうと周りの人が見回すと、お袋の背のねんねこ半纏の中で、私が歌っていた(笑)。今でも、仕事の現場で“いつもハミングしてますね”と呆れられています」

──演劇や映画も好きだったのですか。

「戦争に行った13歳年上の兄貴が、マラリアに罹って一家で疎開していた掛川(静岡県)へ復員してきましてね。アマチュア劇団を作ったんです。私もそこで初舞台を踏みました。映画館の館主が座員にいて、無料で映画館に入れてくれました。アボットとコステロ、ローレル&ハーディ、レッド・スケルトン、ハロルド・ロイド、そしてチャーリー・チャップリン。錚々たるコメディアンや喜劇役者の映画を食い入るように観ました。だから、小さい頃から好きだったんでしょうね」

──演じていて難しい役はありますか。

「“自分にはできない”と思った役はありません。これは、喜劇出身ということが大きいのかもしれない。登場人物が皆、ふざけた役では喜劇が成り立ちません。主役の笑いを引き立たせるには、大真面目な巡査や大家の役が必要なんです。だから、おちゃらけた役から生真面目な役まで、喜劇では何でもやることになる。お陰で、どんな役がきても、驚くことはありませんでした。“俺で、いいの?”と思うことはありましたが」

──具体的に教えてください。

「『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(テレビ朝日)という番組で、ベンジャミン伊東の名で、電線軍団たちと『電線音頭』を踊っていた頃です。すぐ終わると思った番組は1年半も続いてしまい、PTAから俗悪番組と叩かれました。美空ひばりさんにも“うちの子が、こたつの上に乗って真似するから、四朗ちん、あれやめて”と言われたほどです(笑)。そんな時、真面目なドラマへ出演依頼をいただいたんです。“『電線音頭』を踊ってる人間が出ていいの?”と思いました」

──どんな役を依頼されたのですか。

「第一次世界大戦中に徳島にあった俘虜収容所の交番に勤務した警察官の日記を元にしたドラマだったんですが、依頼されたのは、重要な役どころであるその警察官。私がベンジャミン伊東だとこの人は知らないんだと思い“私、今、『電線音頭』で世間を騒がせていますが、こんな私が演じてもよろしいんでしょうか”と言うと、平然な顔で“それがどうかしましたか。話を続けます”って。それが嬉しくてね。今思い返しても、何回もこういうことがあった。不思議な縁としか言いようがない。舞台を一緒にやる三宅裕司さん(66歳)とだって、不思議な縁」

──出会ったきっかけは何ですか。

「『いい加減にします!』(日本テレビ)という三宅さんのコント番組にゲストで呼ばれたんです。もう、30年以上も前です。ところが私、その時は三宅さんのことを知らなかった。しかも、多忙でリハーサルができない。台本を渡され、本番で一発勝負という荒業でした。蓋を開けると、呼吸がぴたりと合い、収録は1回でOKでした。それ以来、三宅さんと一緒に『伊東四朗一座』(伊東さんが不参加の場合は『熱海五郎一座』と名を変える)を立ち上げたりと、つきあいは続いています」

──今年の2月にも舞台で共演しました。

「去年、三宅さんから電話があったんです、いつもの口調で“伊東さん、久しぶりに舞台をやりましょうよ”と言う。80歳を過ぎた私に何を言ってるんだと思い、もちろん、断ろうと思いました。すると三宅さんが畳みかけて聞いてきたんです。“ところで、芝居がいいですか、コントがいいですか?”。それで“コントがいい”と答えてしまったんです……。電話を切ってから“えーっ、俺、なんで言っちゃったんだろう”と頭を抱えました。コントはハードなんですよ。芝居は登場人物も多いし、台詞がばらけるから負担は減りますがコントはそうはいかない。基本的に三宅さんと私のふたりっきりですし、台詞が多いから大変なんです。稽古中も、周りに聞こえないようブツブツと愚痴を言っていました。ところが家では声に出ていたらしく“そんなこと言わないの”と女房に叱られました」

─それほど、舞台のことが頭にあった。

「舞台は自分の“ホームグラウンド”(本拠地)。どこかで、そう思っているんでしょうね。 舞台は“生もの”です。同じことをやっているのに毎日、違う。ウケるところも日によって変わる。お客さんは毎日、違うんですから。極端な話、台詞が0.5秒ずれても、笑いが雲散霧消してしまう。舞台の緊張感は、何年経っても拭えません。じゃあ、なぜやったのか? それは“魔が差したんです”(笑)。16公演をなんとかやり終えましたが、とても80歳の老人がすることじゃありません」

──確かに、80歳には見えません。

「いえいえ、体のあちこちが衰え始めています。もう昔に戻ることは叶いませんから、衰えを受け入れながら生きています。70代の頃は“90歳まで生きてやる”と結構生臭いことを考えていたのですが、80の声を聞いてからは“いつお迎えが来てもいい”と気持ちが楽になった。親父も70歳の手前で亡くなってますし、自分がこの歳まで生きていること自体、信じられません。だからなのか、毎日やっていた筋トレも、最近は気が向かないとやらない。“やり過ぎるとかえって具合が悪くなるんじゃないの?”、と都合のいいほうに考えます。基本が面倒くさがり屋なんです」

──休日は何をしていますか。

「5年ほど前までは、女房の勧めで始めたテニスに熱中していたのですが、惜しいけど、膝を痛めてからラケットを握っていません。仕事が休みの日は、録りためた映画やテレビ番組を観ようと思うんですが“何を観ようかな”と考えているうちに日が暮れてしまい、結局、何もせず一日が終わる。早いですねぇ、日が落ちるのは(笑)。女房に言わせると、表情がないらしいですよ、ふたりっきりの時は。能面みたいに笑わないそうですから」

──ラジオ番組にも長年、関わっています。

「47歳の時に番組を始めて(『伊東四朗のあっぱれ土曜ワイド』/文化放送)、30年以上経ちました。ラジオの面白さって“今”にあるんですよ。今、入ってきた情報をエンターテイナーとしてどう笑いへもっていくのか。それも“生放送”じゃないとできないんです」

──生放送には緊張感を伴います。

「きっと、その感覚が好きなんでしょうね。舞台に出るのも、ラジオの生放送に出るのも、そんな緊張感を味わいたいからなのかもしれません。21歳で初めて喜劇の舞台に立って以来、そういう中でずっと生きてきましたから」

──「引退したい」と思ったことは。

「女房から言われているんです。“自分から積極的に仕事をやめるのは駄目。お父さんは、引退したら腑抜けになってしまう”って。きついこと言うでしょ?(笑)。私以上に、私の性格をわかってますよ。仕事の依頼をいただける間は頑張ろうと思いますが、“いつの間にかいなくなっている”というのが私の理想です。“あの人、なんか最近見かけないけど”“引退したみたいよ”。そういうのがいい」

──今後、やってみたいことは。

「もう、やり過ぎるほどやってきたんじゃないですか?(笑) 大病もせずにやってこられましたし“あの落ちこぼれがよくやった”と、自分を褒めてやりたいですね。よくぞここまで続いた、本当にそう思います」

──なぜ続けてこられたのでしょう。

「ひとつは、縁です。たくさんの縁があったからこそ、ここまで来ることができました。

もうひとつは、心のもち方です。常に心に留めている言葉があります。

《おごれる者もひさしからず、ただ春の夜の夢のごとし》

『平家物語』の一節です。この言葉が昔から好きなんです。今までの人生の歯止めになっているのかもしれません。油断すると、人はすぐ驕ってしまいますから。そうやって駄目になった人もたくさん見てきました。そのたびに“ほら、みろ”と自分を戒めます。

この顔のことも大きいでしょうね。自分で“ここが劣っている”としょげていることでも、長い目で見れば決してそうじゃない、ということがこの頃わかりました。私はこの怖い人相のお陰で就職には失敗しましたが、その代わりこの世界に入ってからは、皆さんに顔を覚えてもらえたし、面白がってもらえた。人生、これっぽっちもモテなかったし、自慢じゃないが、女性問題を起こしたことがない。だって、女性が寄ってこないんだから起こしようがない(笑)。何でもそうでしょうけど、良い面もあれば悪い面もある。人生の損得勘定って、うまくできているなとつくづく思います。損したと思っていたことで、得することがあるんですから」

──今、いちばんの楽しみは何ですか。

「家族との時間です。孫が4人いて、たまに家に遊びに来るんですが、女房に言わせると私が喜色満面になるんだそうです。“こんなに顔が変わるのね”と驚かれます。孫にしてみれば、おねだり相手なのかもしれませんが、可愛くて仕方ない。息子たちの子育ても、仕事の合間を縫って学校行事には欠かさず出ましたが、孫の運動会も皆勤賞ものです」

●伊東四朗(いとう・しろう)昭和12年、東京生まれ。昭和33年、劇団「笑う仲間」の座員となりこの世界に入る。「てんぷくトリオ」で一世を風靡 。現在は舞台、テレビドラマ、ラジオ番組、CMなどで幅広く活躍中。主な出演作に『笑って!笑って!!60分』『ザ・チャンス!』『おしん』『伊東家の食卓』『笑ゥせぇるすまん』『おかしな刑事』シリーズなど。平成9年より、吉田照美さんとコンビを組むラジオ番組『親父熱愛(オヤジパッション)』(文化放送/毎週土曜日15時〜17時)に出演中。

※この記事は『サライ』本誌2018年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工)

 

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