【サライ・インタビュー】
渡辺京二さん
(わたなべ・きょうじ、思想史家)
――日本の近代論や思想史を在野で研究
「イデオロギーは矛盾だらけ。だから歴史を学び直し人間の真実を追究するのです」
※この記事は『サライ』本誌2018年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)
──著作の出版や復刊が相次いでいます。
「この前数えてみたら、累計で36冊くらいになっていました。けれど、僕は物書きとして飯を食ってきた人間ではありません。本が出ているといっても、評論や思想史といったものは絶版になりやすい。つまり儲からない本です。日本の近代史を外国人の視点、それも幸福を軸に素描した『逝きし世の面影』(2005年)は、平凡社ライブラリーに入ってから売れましたけどね。忙しくなったのは、これが思いのほか話題になってからです。最近は年に2、3冊くらい出しているでしょうか」
──いずれも中身の濃い本ばかりです。
「人間、生きていればいろんな本を読みますし、影響を受ければ自分なりの考えももつようになります。プロの物書きという意識は今もありませんが、書くことは好きですね。
10代から仲間と同人誌を出し、文章を発表してきました。一銭にもならない、逆に持ち出しの執筆ばかりです。僕の人生の中で、書くということは自分の原稿を売るための行為ではなく、仲間とともに思想的・文学的な考察を追究する手段で、サークル誌活動の延長です。ですから自分の著作が書店に並んでいたりすると、今も面映ゆい感じがします」(笑)
──膨大な量の文献を渉猟されています。
「家の中は本だらけで、それでも収まりきれず、単身赴任中の娘婿が退職後の書庫用に買ったマンションも僕の本で一杯になっています。一昨年の熊本地震のとき、特に2度目の本震のときは危なかった。倒れてきた本棚に押し潰されそうになりました。それで1万2000冊くらいあった蔵書を整理し始めたところですが、まだ1万冊はあるでしょうね。
震災後、不便になったのは本の定位置がわかり難くなったことです。整理し直したものの、歳だから新しい置き場が覚えられない。それだけじゃありません。持っているにもかかわらず同じ本をまた買ってしまったり、未読の本だと思って開いたらすでに傍線がいくつも引いてあったりする(笑)。老いる、ということを切実に実感している最中です」
──子供の頃から読書好きだったのですか。
「僕はなぜか、小学校へ上がる前から字が読めたのですよ。就学前や低学年のときから高学年向けの『少年倶楽部』や江戸川乱歩の『少年探偵団』、古代ギリシア・ローマの偉人たちを紹介した『ブルターク英雄伝』などをむさぼるように読んでいました。大人向けの軍事雑誌も愛読書でした。ですから、人の生き方や社会の姿のようなことに、子供ながらある程度の問題意識をもっていたのです。
親父は活動写真(無声映画)の弁士で、映画がトーキーになって職を失うとあちこちを転々として映画館の支配人などをしていました。おふくろは専業主婦です。僕は京都で生まれ、熊本で育ちましたが小学校へ上がるときに北京へ引っ越し、その後は東洋のパリとも呼ばれた大連で過ごすことになります。両親は特段に教育熱心というわけではありませんでしたが、大連という街の雰囲気も相俟まって、昭和モダニズムの香りがする家庭でした。といっても、僕の蔵書以外に本らしい本はなかったですけどね」
──戦中の外地だとさぞ苦労もされたのでは。
「敗戦後は暖房用の石炭が手に入らず、寒い中で高粱の粥をすするような悲惨な生活でしたが、本土の都市に比べれば恵まれていました。戦後、おふくろに聞いたんです。“戦時中はさぞ大変だったんだろうね”と。そしたら“そんなことなかったわよ。配給なんて建前で何でも自由に手に入ったわ”と。大連は戦争中でもコーヒーが飲めたんです。空襲も受けていないし、戦後に接収されるまで住んでいたアパートは水洗トイレ付きでした」
──どんな少年でしたか。
「ひと口で言えば、軍国科学少年。本と教育の影響ですね。当時の青少年向けの本には新兵器や殺人光線のような時代を象徴する記事も取り上げられていましたが、科学に基づいた理想主義が貫かれていました。夢や興奮を与え、正義を論じていた。イデオロギーを押し付けるような動きが出てきたのは戦局がかなり怪しくなってきてからです。学校へ配属将校が来て威張り出したときも、僕個人はわかっていましたよ。日本が天孫降臨から始まったというのはおとぎ話で歴史ではないことも、竹槍でアメリカ軍に勝てないことも」(笑)
──終戦は大連で迎えたのですか。
「中学3年生のときでしたが、混乱で引き揚げもままならず、僕が母親の着物を市場で売ってその日を凌いでいました。町自体が共産主義化し、先日までの日本人の栄華は中国人の搾取の上に成り立っていたのだと、植民地主義の反省を迫られました。昭和22年春に日本へ帰りましたが、既に左翼でした」
「ハンガリー事件に、戦前の日本と同じ矛盾を見た。それが僕の“戦後”の始まりです」
──軍国科学少年から共産党員へ。
「正反対のように思えるでしょうが、振り返ってみれば根底にあるものは同じなのです。天皇さんのお仕事は、すべての国民が不幸にならないようにすることだと教わっていましたから、日本は正義の国だと信じていました。僕がまだ小学3年生だった北京でのことです。住んでいた街に成り金が集まる料理店があり、昼からどんちゃん騒ぎをしていた。けしからん大人がいると思い、店の前で“非国民!”と怒鳴ったことがあります」
──純粋無垢な少年だったのですね。
「当時はね。戦前昭和の子たる僕から見れば、無政府主義者も、テロリズムに走る民間右翼も、二・二六事件を起こした青年将校も奥底の情熱は同じなんですよ。この世の中で、誰もが暮らしが立つ時代が来ることを信じて動いた。彼らの多くは庶民で、行動の原理は当時の教育の中で教えられた真・善・美、すなわち正義です。しかし、暴力という手段に訴えたことが結果的に、彼ら庶民の子弟が思い描いた理想主義を遠ざける結果になりました」
──引き揚げてからはどうされたのでしょう。
「頼ろうとしていた母の実家の家族は空襲で焼け出されていて、一緒にお寺の本堂の一隅で暮らしました。僕は高校に通い始めたのですが、結核に罹っていることがわかりました。2度目の喀血には死を予感しました。
ところが療養所に入ってみると、僕は症状がましなほうでして。毎月ひとりかふたり亡くなりましたが、入所者はみな明るく、娑婆よりも自由な空気に満ち溢れていた。隠れて酒を飲むこともあったし、色恋沙汰もたくさんあった。僕以外は年上の兵隊上がりだったので可愛がられましてね。患者の間でも共産党の活動が盛んで、僕は所内でガリ版刷りの月刊のサークル誌を発行していました」
──今の評論活動の原点ですね。
「退所後は熊本でもサークル誌を作るようになりますが、共産党の活動とは訣別しました。きっかけは、1956年に起きたハンガリー事件です。自治を求めて蜂起したハンガリー市民を、ソ連が武力で鎮圧。多数の死者と難民を出した。戦前の天皇制ユートピア主義と同じ矛盾を、ここではっきりと見たのです。もっと歴史に学び、人間の真実を研究しなければと思ったときが僕の戦後でした」
──生計はどのように立ててきたのでしょう。
「東京へ出て、書評紙の日本読書新聞のアルバイトから編集者になりました。これが僕の唯一の月給取りの時代です。東京にいたのは数年間。その後は熊本に帰り、県内で文芸誌活動をしながら英語を教える塾を開きました。
この塾はなかなか繁盛していたのですが、僕が水俣闘争に熱中するに従って生徒が激減し、生活は困窮しました。なんとか食えたのは妻のおかげです。68歳で亡くなってしまったので、どう遣り繰りしていたのかもう聞けませんが、頭を下げて借金もしていたのではないでしょうか。今も時々、財布にお金がなく冷や汗をかいている自分の夢を見ます」
──水俣問題とも関わっていらっしゃった。
「はじめは距離を置いていたのですよ。環境問題は近代化の過程で必ず起こる矛盾で、僕のような者がいなくてもいつか社会制度の中で解決する。では、なぜ立ち上がったのか。これは単なる公害事件じゃなく、近代に取り残された民が、近代の生み出す悪と対決しているんだと気付いたからです。水俣病患者の会が補償交渉をめぐり分裂したとき、僕は水俣病を告発する会という組織を作り、裁判に踏み切った29世帯の支援を始めました」
「水俣は、人の誇りを取り戻す闘い。僕はそこに心を動かされたのです」
──共に立ち上がったのですね。
「患者の方々は、不知火海で漁をしてきた、本来は闘争などと無縁な庶民です。そんな普通の人々が大企業と対等な立場で交渉をしたいと、一生懸命勉強して訴訟を起こした。いわば、一揆です。石牟礼道子さんが書いているように、人間としての誇りを取り戻す闘いでした。イデオロギー的な発露ではなく、僕は純粋に心を突き動かされたのです。
熊本地裁に提訴した日、渡辺栄蔵さんというお爺さんは言いました。“本日私たちは、これから国家権力に立ち向かうことになったんでございます”。弱い者が命がけで強い者に挑んでいる。傍観していてよいのか。まさに時代劇における義憤です。患者とともにチッソ東京本社や厚生省(当時)に籠城しました。逮捕は厚生省を占拠したとき。建造物侵入の容疑で4日間、留置場に入りました」
──石牟礼さんはどのような方でしたか。
「僕より3つ年上で、日本の近代文学の中にはない破格の表現力をもつ人でした。詩人の谷川雁さんや『日本残酷物語』を編集した谷川健一さん、『思想の科学』の鶴見俊輔さんも高く評価していました。彼らの紹介で僕のサークル誌に書いてもらった作品が、後に単行本化され代表作となる『苦海浄土』です。
大きな才能をもつというよりは、超越した個性をもつ人。そして、とてもかわいそうな人でした。彼女の本質は修羅なんです。我がとても強く、心の中はいつも荒れ狂っている。彼女の作品のエネルギーは怒りと悲しみなのです。性格的にも周囲と折り合えないので、私生活でも摩擦ばかり起こしていた。ですから見ていられない。僕は彼女の執筆を手助けするため、50年間、身の回りの世話を焼いてきました。原稿の清書、手紙への返信、取材先のアポイント取りや同行、掃除や食事作りもしてきました」
──石牟礼さんは今年2月に亡くなりました。
「晩年に施へ入られてからは週に4〜5日、それまでは毎日のように自宅へ通いました。石牟礼さんのお世話をすることは僕の日々のリズムでした。亡くなってからは、一日がすごく長くなったように感じます」
●渡辺京二(わたなべ・きょうじ)昭和5年、京都生まれ。大連一中、旧制第五高等学校(現・熊本大学)を経て法政大学社会学部を卒業。河合文化教育研究所主任研究員。同人誌の編集や塾講師の傍かたわら、独自の視点で日本の近代史や思想史を研究する。再刊された『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)が注目を浴び、和辻哲郎文化賞を受賞。近著に『原発とジャングル』(晶文社)、『バテレンの世紀』(新潮社)など。
※この記事は『サライ』本誌2018年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)