文/後藤雅洋

“時代”はジャズに表れる

「現代のジャズ・ヴォーカル」の2回目にあたり、「ジャズの現代性」という話をしてみたいと思います。

この記事は、第51号「現代のジャズ・ヴォーカルvol.2」(監修:後藤雅洋、サライ責任編集、小学館刊)からの転載です。

 

私がジャズを聴き始めた1960年代には、「ジャズは時代を映す鏡だ」と、ジャズ・ファンの間で囁かれていました。つまりジャズは「伝統芸能」や「古典」とは違う現代的な音楽なんですよ、ということでしょう。もっともこれは、歌謡曲などでいわれる「歌は世につれ世は歌につれ」という発想と同じですね。

その頃の私は「ジャズの歴史」などほとんど知らなかったので、そうしたジャズ・ファンの会話にはついていけませんでしたが、ロック、ポップスの恐ろしいほどの変化は誰しもが肌身で感じていました。当時はラジオが現在よりはるかに強力なメディアでした。ですから、ラジオから流れる1956年のエルヴィス・プレスリー「ハートブレイク・ホテル」から、64年のビートルズ「抱きしめたい」に至る大きな変化は、当時のほとんどの人々が実感していたのです。その8年ほどの間にポピュラー・ミュージックが激変したのですね。もちろんこの変化は日本の音楽界にも大きな影響を与えました。ちなみに56年には、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言し、以後73年に至る日本の「高度成長期」が始まったのでした。付け加えれば、56年は昭和31年ですが、昭和20年代にはごくふつうにラジオから浪花節が流れていたのです!

私が「ジャズ」で社会状況と連動した変化を実感したのは、もう少し後でした。72年にピアノ、キーボード奏者のチック・コリアが出したアルバム『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(ECM)を聴いた時です。それまでのジャズは、テナー・サックス奏者、ジョン・コルトレーンの激しく情熱的な演奏に象徴される「過激な音楽」が一般的なイメージでした。ところがチックのこの新譜は、後のフュージョンの先駆けともいわれたように、じつに快適でユートピア的な音楽だったのです。

当時このアルバムは日本で大ヒットし、ジャズ喫茶でもリクエストが殺到しましたが、そんなことよりも私を驚かせたのは「音楽のかかる状況」でした。なんとスーパー・マーケットのBGMに「リターン・トゥ・フォーエヴァー」が流れたのです。今ではラーメン店でもふつうにジャズが流れていますが、私の記憶では街中で初めて聴いたジャズがこれだったのです。

この「ジャズの変容」がとくに印象的だったのは、それが当時の社会状況の変化を反映していたからです。72年といえば連合赤軍が浅間山荘に立てこもって銃撃事件を起こした年です。現場のテレビ生中継の視聴率が90%近くに達した、全国民注目の大事件でした。その後、仲間同士のリンチ事件が発覚し、世間の学生運動に対する見方が大きく変わってしまったのです。60年代のジャズ喫茶は学生運動家たちのたまり場的な様相を呈しており、それだけに私は彼らに対してはおおむね同情的でした。その空気が、この事件を契機として一変したのです。

そしてこの変化が、私には過激なコルトレーン・ミュージックからユートピア的なチックの新作への変容と重なっているように思えたのでした。彼の新しい音楽のヒットは、過激な60年代から平和な日常的世界への転換と連動しているように聴こえたのです。

時代の空気は多種多様

一気に時代を21世紀に早送りしましょう。ここ数年明らかにジャズは新しい状況を迎えています。斬新で面白くなっています。そしてその新しさを一番わかりやすい形で反映しているのが、じつはジャズ・ヴォーカルなのです。その理由ははっきりしています。声による表情が付けられる歌は、器楽演奏より時代の「気分・雰囲気」といった言葉にしにくい微妙なニュアンスを表現しやすいのです。

60年代はすべてが現在よりシンプルでした。世界は東西2大陣営に分けられ、その枠組みの中でそれぞれの立場を表明すればよかったのです。しかし現代ははるかに複雑です。21世紀になって起こった9・11同時多発テロ事件以来、世界情勢は混沌を深めています。「時代の空気」といっても、一色ではないのです。ですから「人々の気分」は多様で、ある意味では「個人的」なものに近くなっています。

しかしまったく「傾向」がないわけではありません。ここ数年「びみょ~」という言い方が一般的になっています。ものごとを簡単に判断できず、それこそ「微妙なニュアンス」でしか伝えられない「何か」の表現なのでしょう。若い女の子が使い始めたようなので、「カワイイ」と同じように「語彙が不足した雑な言い方」とオジサンたちは批判的に思っているようですが、別の見方もできるのではないでしょうか。それは繊細さの感覚です。白黒つけ難いものごとを言葉にしようとすれば、自ずと形容は「びみょ~」にならざるを得ません。

たしかに「びみょ~」という言い方には違和感を覚える人もいるかもしれません。しかしそう言わざるを得ない時代の空気、つまりものごとを単純に決めつけられないことを感じ取る「繊細さ」が、彼女たちにはあるように思うのです。そしてこの「繊細で微妙な」感覚が、時代を見つめるセンスと優れた歌唱技術をもった歌い手によって的確に表現されているのが「現代のジャズ・ヴォーカル」なのです。その繊細な感覚で表現されているものをあえて言葉にすれば、それは「優しさ」なのではないでしょうか。

簡単に答えが出ない錯綜した世界を否定したり拒絶したりせず、混沌の中にあえて希望を見いだそうとする前向きの姿勢、それが包容力のある優しさを生み出しているのです。この優しく繊細な感覚こそが、「現代のジャズ・ヴォーカル」に共通する傾向なのです。

東西冷戦下の時代は、とくに政治的でない人もそれぞれの立場でシンプルな善悪の「判断基準」があり、だからこそ好悪の感情も明確に表現できたのです。ジャズやロックが反体制的だったり、あるいはその反動として歌謡曲やポップスが恋愛や日常を歌い上げたりするのは、社会の価値基準が明確だったからではないでしょうか。他方現代ジャズはインスト(器楽演奏)、ヴォーカルを問わず、そうしたシンプルな視点ではなく、現代の複雑に人々の利害が絡み合った政治・社会状況をそれぞれの立場から冷静に見つめた結果としての繊細な表現なのですね。

変容がジャズの伝統

そして現代ジャズのもうひとつの傾向は多様性です。私たちが一般にイメージするひと昔前(50年代から60年代)のジャズは、器楽演奏にしろヴォーカルにしろ、わりあいシンプルな区分けで見取り図が描けました。それは黒人たちのアーシー(土臭い)な演奏と白人による洗練された音楽という大雑把な区分けです。もちろん例外もありますが、程度の問題という見方もできました。私なども演奏者、歌い手を伏せた音源でも、黒人系か白人系の音楽かは半分以上聴き分けられました。読者のみなさんもアクの強さと隣り合わせのきわめて黒人的なサラ・ヴォーンの歌唱と、ハスキーであっさりとした典型的白人歌手、ジューン・クリスティのテイストの違いは実感できると思います。

しかしこうした判別が可能だったのは、40年代半ばから60年代後半に至る、いわゆる「モダン・ジャズの時代」に、ヴォーカルを含めジャズはおおむねスタイルを確立させていたからです。黒人的であれ白人的であれ、「ジャズ」のイメージが出来上がっており「その範囲内での表現」だからこそ、黒人らしいとか白人らしいといった言い方ができたのですね。

他方70年代以降、ジャズはロックはもちろんヒップホップやワールド・ミュージックなど、他の音楽ジャンルの影響を強く受け、またもやジャズ自体が変容を始めたのです。「またもや」というのは、19世紀末に黒人たちを中心としたコミュニティの中から自然発生したジャズは、当初から白人たちのフォーク・ソングやラテン・ミュージックといった、「黒人音楽」とは別の領域の音楽ジャンルを自由に取り入れ、少しずつ変容を重ねた結果としての「融合音楽」だったのです。

そうした混沌とした融合音楽が、天才的アルト・サックス奏者、チャーリー・パーカーが登場した40年代半ばに始まる「モダン・ジャズの時代」に、現在多くの方がイメージする「ジャズ」のスタイルとして確立されていったのでした。その若干定型化した「ジャズ・イメージ」が70年代以降再び変容を続けてきた結果、現代のジャズは昔とは比べようもないほど多様なテイストを含むようになりました。

その理由は明白で、ヒップホップやクラシックといった、従来あまりジャズとは縁がないと思われていた音楽ジャンルがきわめて洗練された形でジャズに取り込まれているからです。結果として、従来言われてきたような単純な黒人的とか白人的といった二分法があまり意味がなくなった半面、他ジャンルの音楽を貪欲に取り込んできた昔からの「ジャズ」ならではの特異性が今また明確になってきたのですね。しかしこれは歴史的に見れば、19世紀末に誕生して以来の「融合音楽としてのジャズ史」のくり返しでもあるのです。そういう意味では「ジャズの伝統」は一貫しているのです。

最先端の先祖返り

現代のジャズ・ヴォーカルについていえば、その特徴はポピュラリティでしょう。大雑把な言い方をすれば、21世紀のジャズ・ヴォーカルはポピュラー・ミュージックに近づいているといえます。ひと昔前、モダン・ジャズの時代のジャズ・ヴォーカルを代表する歌い手、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのスキャット交じりの歌唱は、誰が聴いてもポピュラー・ミュージックとの違いはわかりました。しかし、現代ジャズ・ヴォーカリストの歌唱は人にもよりますが、ポップな色彩がきわめて強くなっています。

昔ながらのジャズ・ファンはこれをもって「ジャズが変わってしまった」、またもっと極端な人は「ジャズは終わった」という感想を持ちがちですが、これは少々短絡的な見方ではないでしょうか。この方々は19世紀末から120年ほども続いてきたジャズの歴史のうち、1940年代半ばから60年代後半までのわずか20年ほどの期間のジャズをイメージするからそう思われるのですね。

20年代に登場した「ジャズの父」ルイ・アームストロングはその人懐っこい表情も含め、つねに聴衆との距離を縮める努力をしてきました。つまりポピュラリティの確保です。また、30年代に一世を風靡したスイング・バンド、クラリネット奏者のベニー・グッドマンの楽団は、それまで黒人を中心とした一部の聴衆にしか聴かれていなかったジャズを白人社会に知らしめただけでなく、まさに「大衆音楽」として世に広めたのです。

モダン・ジャズの時代でも、ポピュラリティを考えたミュージシャンはいました。チャーリー・パーカーとともに“ビ・バップ”を主導したトランぺッター、ディジー・ガレスピーです。彼はおどけた素振りで意味のわからないスキャット・ヴォーカルを披露したり、パーカーとは対照的に大衆性ということを考えていたのですね。しかし彼のスタイルは一般的とはならず、パーカーの「芸術路線」がモダン・ジャズの主流となったのです。

このように「ジャズ史」を俯瞰的に眺めると、現代のジャズ・ヴォーカルは時代の空気を敏感に反映させつつも、発想において「先祖返り」的なところもあり、全体としてのジャズ史的一貫性は保たれているのです。つまりどんなに表面の意匠が変わっても、ジャズは相変わらずジャズであり続けているのですね。そしてそれこそがジャズの魅力なのでしょう。

最後に、その変わらないジャズ・ヴォーカルの魅力とはなにかということを説明いたしましょう。それは今までの特集でくり返しお話ししたように、ポピュラー・シンガーは楽曲の魅力を引き出すことで自分をアピールするのに対し、ジャズ・ヴォーカリストは楽曲を「素材として」自己表現を行なっている、ということに尽きるのです。

文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。

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この記事は、第51号「現代のジャズ・ヴォーカルvol.2」(監修:後藤雅洋、サライ責任編集、小学館刊)からの転載です。

 

 

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