文/柿川鮎子、写真/木村圭司
定刻になると小窓から鳥が飛び出す鳩時計。ドイツ発祥のこのからくり時計の鳥は、じつは鳩ではなく「カッコウ」です。だから外国ではカッコウ時計と呼ばれています。世界中で日本人だけが、鳩時計と呼んでいるのです。
この理由については前の記事「そう呼ぶのは日本人だけ!実は鳩じゃなかった鳩時計の謎」で、「カッコウは閑古鳥に通じて縁起が悪かったから」という説を紹介しましたが、その後、詳しく調べるうちに、日本で「鳩時計」と呼ぶようになった背景に、一人の女性の平和への想いが込められていることがわかりました。
その女性とは、日本で最初に鳩時計を作った手塚商店の三橋可免(みつはし・かめ)さん。可免さんは、日本機工新聞社が発刊した『この道に生きる~機工自叙伝』で、鳩時計を製造・販売するきっかけについてこう語っています。
「戦争が終わって、急に工場を解散するわけにもいきませんので、平和産業で何かやれるというものをといって、はじめたのが時計の製作でございます」
戦争が終わり、これからの平和な時代にふさわしい商品を届けたい。特に可免さんは「平和産業で何かやれるというもの」を考えました。
可免さんの工場は戦争中、皇国工場として軍に接収された後、戻されました。戦地から帰国した社員や、戦争で家族を亡くした従業員の生活のためにも、会社を軌道に乗せなければなりません。そこで平和産業として考えたのが鳩時計だったのです。
■平和な時を告げる鳩時計の誕生
鳩時計を製造した理由について、可免さんの孫であるテヅカ代表取締役社長・三橋誠さんは、鳩時計が比較的作りやすい製品であったためだと、考えています。
「戦後、物のない時代に作れるものは限られていたでしょう。手塚商店は、横浜にある貿易商社などを通じて海外の工具を輸入しており、そうした商社などを通じて、ドイツのからくり時計に出会ったのではないでしょうか。ポッポーと鳥が出てくる可愛いらしいからくり時計が記憶に残っていて、あれなら作れる、と」(三橋誠さん)
可免さんは工場で、ドイツの鳩時計を分解し、全く同じコピーを製造し、鳩時計と名付けて販売しました。旧約聖書で、鳩がオリーブの枝を加えて洪水がおさまったことを知らせたように、戦争が終わって焼け野原になった日本に、平和の象徴である鳩を飛び立たせたのです。
作ったからくり時計をカッコー時計ではなく、鳩時計と名付けた背景に、平和の象徴でもある鳩のイメージを重ねた点については、可免さんの自叙伝からも間違いはなさそうです。
可免さん自身は軍や戦争に関して、恨みがましいことも、批判的なことも一切語っていません。しかし、戦後、多くの会社が手掛けた軍の放出物を決して扱わなかったことは、可免さんの軍に対する嫌悪感をうかがわせます。
手っ取り早く儲けるならば、放出物を売った方が簡単ですし、皇国工場として軍との繋がりはあったはず。しかし、可免さんは海外から輸入するなど、新品の製品だけを扱い、ドイツのコピーとはいえ、鳩時計の生産を自社で開始し、「ポッポの鳩時計」として販売しました。ここにも可免さんらしい、一本筋の通ったものの考え方が伺えます。
ポッポーと鳴く鳩が、人々に平和で幸せな時間を告げられますように。戦争で傷ついた人々に、安心できる時間、生きている喜びの時間を伝えたい。そんな可免さんの願いが込められたポッポの鳩時計は、戦争で疲弊した人々の心を癒し、大ヒット商品となったのです。
■鳩時計生みの親の壮絶な人生
鳩時計を作った三橋可免さんの生涯は、身近な家族の死が暗い影を落としています。社屋は関東大震災と空襲で二回も焼け落ちてしまい、全財産を失って命からがら逃げ伸びるという過酷な体験もしました。決して順風満帆な人生ではなかったのです。
可免さんは明治23(1890)年、京橋南八丁堀で工具商を経営していた三橋鉄三郎、わかの長女として生まれました。私立村上小学校の高等科4年で8歳の時、父親を肺病で亡くします。享年39歳という働き盛りで、これから盛り上げていこうという矢先でした。店をたたみ、母と二人きりで父との思い出の家から引っ越した後、可免さんは17歳で父親と同じ工具商であった手塚六郎さんと結婚します。明治42(1909)年には手塚商店を立ち上げ、一人息子である矯さんが誕生します。
夫と一人息子、そして数人の従業員との幸せな暮らし。夫の手塚六郎さんは新しい工具や機械について研究熱心で、外国製品もたくさん取り扱っていました。可免さんが鳩時計に触れたのも夫の影響があったようです。
永遠に続くと思われた幸せな時間は、大正8(1919)年、夫の手塚六郎の死によって突然、絶たれてしまいます。父親と同じ肺病でした。
一人息子と7,8人の店員を抱えて、可免さんは孤軍奮闘します。従業員と力を合わせ、神戸製鋼所指定の代理店になるなど、懸命に働きました。「息子が後を継ぐまでは」という願いが可免さんを奮い立たせていたのでしょう。
しかし、大正12(1923)年には関東大震災で銀座6丁目の本社社屋は全壊し、昭和2(1927)年には昭和金融恐慌と、会社を取り巻く環境は厳しいものでした。
■頼みの綱であった一人息子が病没
さらに昭和4(1929)年、可免さんの人生で最も辛い出来事が襲い掛かります。泰明小学校から九段中学へ進学し、成績優秀で将来を嘱望されていた大切な息子が突然、病死してしまうのです。
「親の口から申し上げるのも変ですが、なかなかよくできた子でした。私も主人亡き後は、精神面ではこの子ひと筋に生きてまいりましたので、この子に逝かれた時は、ほんとうに生きる希望さえも失ったほどです」(「この道に生きる~機工自叙伝」)
とはいえ、従業員をかかえ、悲しみにくれている暇などありません。昭和5(1930)年には世界大恐慌で景気は低迷し、ようやく回復した後も、昭和16(1941)年の第二次世界大戦開戦と共に米国より輸入していたダイヤルゲージという、寸法精度を確認する製造現場には欠かせない測定機器が入手できなくなります。日本軍の依頼で手塚商店の製造部門として手塚測定工具という会社を設立し、軍需工場として国産のダイヤルゲージの製造を開始しました。
そして終戦後の昭和20(1945)年、手塚測定工具から社名変更した手塚時計で、日本初の鳩時計が作られました。日本人だけでなく、進駐軍が土産物として大量に購入したほか、輸出もされて、大盛況でしたが、次第にクオーツ時計などに押されて平成10(1998)年に事業は閉鎖。一部がシチズン参下のリズム時計工業に受け継がれ、現在、リズム時計工業では「カッコークロック」という名前で、鳩時計の販売を行っています。
■「鳩」時計として多くの人に受け継がれていく可免さんの想い
手塚時計時代を知る数少ない職人で、現在は「ポッポの時計屋」として鳩時計の修理をしている平田雅則さんは「手塚時計の鳩時計は、修理を依頼される方が大切に使われていたことが、よくわかるものばかりですよ」と語ります。
また、国内唯一の鳩時計専門店である「森の時計」の代表・芹澤庸介さんも、「三橋可免さんの想いは、これからも鳩時計を通じて多くの人に伝えたい。鳩時計に対してますます愛着を感じます」と言います。
すべてを焼き尽くした震災と戦争、そして夫と一人息子の死を乗り越え、明るい光が見えてきたのは戦後、事業が順調に推移し、お寺の紹介で養女を迎え、養女が結婚して後継ぎである孫が誕生してから。
「孫の私などは叱られた記憶もあまりなく、いつもニコニコ優しいおばあちゃんでした。過酷な体験をしてきた人だったなんて、みじんも感じさせなかった。当時の日本で女性経営者はめずらしく、男性中心の社会ではいろいろあったと思うのですが、本当におだやかな人でした。父が後を継いだ後は、会長に退き、ひと言も経営について口を出さなかったそうです。今思えばもっと経営のこととか教えてもらえばよかった」(三橋誠さん)
誠さんの弟でテヅカ代表取締役専務の三橋実さんは、「祖母との思い出というと、寺社巡りです。菩提寺が高輪にあり、ひんぱんに訪れては、長い間、手を合わせていましたね」と語ります。可免さんが、愛する夫や息子の眠るお墓に手を合わせ、心の中で何を語っていたのか、今では知るよしもありません。
昭和58(1983)年、可免さんは93歳で静かにこの世を去りました。可免さんの平和への思いは受け継がれ、ドイツのカッコウ時計は鳩時計として、今も多くの家庭で時を告げています。
取材・文/柿川鮎子
明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。