サライ世代の範とすべき人生の先達の生き様を毎号お伝えしている『サライ』本誌連載「サライ・インタビュー」。2018年新春企画として、昨年本誌に掲載されたインタビューの数々を紹介する。

黒井千次さん
(くろい・せんじ、作家)

――自らの体験から「老い」について提言

「アンチエイジングは〝年不相応〟。老いるべきときに老いていかないと〝老い遅れ〟ます」

撮影/宮地 工

※この記事は『サライ』本誌2017年3月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──お仕事は夜になさいますか。

「以前はそうでした。書く仕事は夜中のほうが集中しますからね。朝になって鳥が鳴きだすのを聞いてから眠る。それが習慣でしたが、ある時期から夜中の作業が辛くなりまして。朝まで起きていられなくなったんです。

パソコンは苦手なので、万年筆で原稿用紙の桝目を埋めてゆくわけですが、夜中までやっていると『です。』と書いたつもりが『すで。』になっていたり(笑)。〝これはいかん〟と、夜中に仕事をするのは止めました」

──それは何歳くらいからですか。

「70歳を過ぎたくらいからでしょうか。60代はいくらでも起きていられたんですけどね。それと、昼に寝ていられなくなりました。それまでは平気で昼まで寝ていられたのが、なんだか目が覚めてしまう。ですから、夜は12時、遅くても1時までには寝てしまいます。

小説は連作の格好で、年に3本書いています。〝4本は書け〟と言われていますが、なかなかそうはいかなくて。充実して仕事ができるのは朝食を終えて、午前10時半から午後3時頃まで。夕暮れ前に散歩へ出かけます」

──散歩が健康法でしょうか。

「まあ、そうですね。随分前ですが健康診断で血糖値が高いので薬を飲むか、運動をするか、どちらかを選べと言われまして。薬を飲むのは嫌なので運動を選び、1日1時間は歩くようにしてきました。今は、むしろ気分転換の意味のほうが大きいでしょうかね。

この頃は、歩いていると後ろから来る人によく追い抜かれます。若い人ならまだしも、さして急いでいるとも思えない中年や初老の人にも追い抜かれる。少しムキになり、追いつこうとしても離されてしまう。最近は1時間も歩かないうちに〝もう、いいや〟と、帰ってきてしまうことも結構あります」(笑)

──老いについて書かれた随想が好評です。

「私の短編小説には自分と似た年頃の人間が出てきますが、その登場人物も年寄りが多くなってきました(笑)。それを読んだ読売新聞の方から、現代の老いをテーマに昨今の老人像について随筆を書けと言われまして。月1回というので引き受けて『時のかくれん坊』というタイトルで書き始めたのが2005年5月。72歳の誕生日の翌日が第1回目でした。

人は年を取るとどうなってくるのか。日常的に自分で発見してゆく老いの兆候みたいなものを追いかけるのを基本的な内容にしようと。小さなことでもいいから、ひとつひとつ拾って眺めているうちに、だんだん見えてくるものが、もしかしたら現代の年寄り像になるのではないか。そう思って書き始めたら、読者の反響が随分あったようなんです」

──どんな反響がありましたか。

「老いにどう対処するかということについてはしきりに書かれているけれど、老いると実際に何がどうなるのかは書かれていない。それが読んでわかるから面白いと。例えば、年を取ると昔はやらなかったようなヘマをやる。パーティの日取りを間違えて、前の日に行って誰もいないところでまごまごしたとかね。その手のヘマがいろいろあるわけです。

その連載の5年間56回分を『老いのかたち』(中公新書)という本にしたら、年寄り候補生の方がかなり読んでくれまして。次の5年56回分も『老いの味わい』(同)という本になりました。連載は今も続いていて、もう13年近くになります」

──老いは現在進行形ですね。

「もちろん、そうです。年齢は常に初体験ですから。ただ、70代はまだ老いの目撃者的なところがあったんですが、80歳を超えると違ってきます。老いが身に食い込んでくるというか、そういう実感があります。

この前、うちの風呂釜が壊れたので、ガス屋さんに見てもらうと、設置して13年になっていました。機器の寿命は
13年から15年なので買い替えたほうがいいと言われたのですが、風呂釜が13年で老朽化するなら、住んでいる人間が老朽化するのは当たり前かと。それに次の13年後は、俺は90代も終わり頃だから、2代目の風呂釜を見送ることはできないだろう。そう、はっきりと手につかめる形で老いを教えられたわけです」

──老いに抵抗しようと思いませんか。

「年齢が進めば、だんだん老人になる、衰えてゆくのは自然なことで、逆らってはいけない。というか、逆らうことは本質的にはできない。あっちが壊れ、こっちが壊れたりするのは辛いことではあるけれども、それが自然だとしたら、受け入れてゆくより仕様がない。そのほうが人間らしいんじゃないでしょうか。

老化に対抗する、アンチエイジングという考えは立派なことではあるのかもしれないけれども、そこには“老い遅れ〟といった現象もあるのではないか。アンチエイジングって、年相応じゃないですよ、年不相応です。

若い人が、若さを発揮するのは自然なことですが、それができずに妙に老けてしまうズレみたいなものってあるでしょう。その逆の格好で、老いるべきときに老いていかないと、それは何か欠けていることになりはしないだろうか。静かに、間違いなく老いてゆく。それを課題に老年を生きるのなら、老い遅れに気をつけたほうがいい。負け惜しみではなく、そう自分に忠告したいわけです。理想をいえば、健やかに老いてゆくというのが一番だと
思います」

──なぜ作家になられたのですか。

「戦争に敗けて2年くらいすると学制改革があり、私は中学3年生の次に新制高校の1年生になった。その新制高校の仲間たちが作った『ひとで』という同人雑誌がありました。10代半ばで、その年頃の子供たちによくある自然発生的なものですが、仲間と回覧し、とても自由な雑誌でした。私の小説はまとまりもないし、あまりに幼くもあったのですが、高校時代は『ひとで』に小説を書く喜びとともに過ごしたという感じです。

もちろん、漱石とか鴎外とか、日本の近代文学は読みましたし、個人的には堀辰雄が好きでした。世界文学全集は手当たり次第の乱読で、ちょうど第一次戦後派といわれた野間宏、梅崎春生、椎名麟三といった人たちの作品もよく読んでいました。自分も作家になって小説を書きたいとはっきり意識し始めたのは、高校の終わりくらいです」

──東京大学経済学部に進まれました。

「文学をやるには、世の中の全体をつかまえることが必要で、それには経済学が必要と思ったんです。もうひとつの理由は、親父が検事で、その定年後は最高裁判所の判事をしていたのですが、東大も法科以外は認めないというようなところがあって、文学部には行きにくかったんです。もっとも、大学時代は同人誌に力を入れ、授業はあまり熱心に聞かなかったので、結果として学部はどこでも同じだったと思います」(笑)

──卒業後は富士重工業へ入社されます。

「日本の乗用車産業が本格化する、昭和30年の入社です。それまではトラックが中心でしたから、まさに高度経済成長期の始まりです。

大学時代は第二次戦後派といわれた安部公房とか、前衛的といいましょうか、そういう小説に魅かれたんですが、それではだんだん物足りなくなってきまして。就職してからは〝働くとはどういうことなのか〟という視点が私の小説の中に入り込んできたわけです。

結局、富士重工業でサラリーマンを15年続け、38歳のときに辞めました」

──会社を辞める不安はなかったのですか。

「会社勤めをしていると、小説に割く時間が圧倒的に足りません。幸いなことに、大変に景気のいい時代で“脱サラ〟なんて言葉も流行りだした頃ですから、辞めることへの悲壮感はなかった。最後は東京本社の宣伝部にいたのですが、上司に辞めたいと伝えたら“会社が求めているのは24時間働く企業人だから、おまえみたいな社員は要らない〟と、もっともなことを言われました(笑)。

会社勤めの15年間を無駄だったとか、回り道をしたとは思いません。得たもののほうがはるかに大きかった。当時、仕事でつき合いのあった50代前後の社長たちは“芥川賞、取れよ。ダメだったら、俺の会社で拾ってやる〟
と、応援してくれました」

──作家生活を貫く信条は何でしょうか。

「私は意を決して何かをやろうとか、絶対に成し遂げるとか、そういうのは性分に合わないし、あまり好きじゃない。早い話が体育会系は苦手です(笑)。できるのかできないのか、どうだろうか、というような感じでいるほう
がいい。ぐだぐだ、ぐにゃぐにゃと、だらしないみたいなふうでいながら、時間が経つと、そこから何かが出てくる。そのほうが本当は格好いいぞと思っているところがあって、それは何ごとにおいてもそうなんです」

──老いの先にある死については。

「老いてゆき、昔とは違うことが少しずつ増え、その先に待つのが終わり、死というものですよね。それは、老いを考えるよりもはるかに難しい。老いについては直につかみやすいところはありますが、死ということになると、これはわからない。

ただ、この世とは違う世界がどこかにあって、そこにゆくのだというふうには私は考えられない。いま我々が生きている世の中とは全く異質の花園だとか、極楽浄土があるとは実感としてつかめない。言えるのは、自分のいない世界がそこにある、ということ。

自分の生は終わったかもしれないけれど、もう少し広い枠で、もうひとつ高い次元でみると、そこに続いてゆく世界はある。それは常々経験していることで、誰かが亡くなっても、この世界の連続性というものはあって、自分がいなくなったらなったで、いない世界が続いてゆく。なのに、自分の命が短く切れてしまうことばかり考えていると、人生が貧しくなるんじゃないか。在った者はいなくなるけど、どこかへ行っちゃうとは考えないほうがいい。

いまはそんなふうに感じています」

──どんな死に方が理想でしょうか。

「よくいわれるのは、ピンピンコロリという死に方ですが、自分がそうありたいとは思いません。だって、みんなびっくりしますよ。親しい友人だとか、先輩だとかが、夕べまで元気だったのに急に亡くなったなどといわれたら。あれは、あまりいいことではないんじゃないかな。やっぱり、順々に老いていって、それを周りの人にもわかってもらい、ゆっくりと逝くのが一番自然です。

高校時代の同人誌『ひとで』の仲間たちとは、毎年一度会ってきたのですが、ひとり欠け、ふたり欠けして、11 人のうち5人が亡くなった。あとひとり欠けたらあっちの世界の人が多くなるけれど、まだ生きているほうが多いぞ、そのキャスティングボートを誰が握ってるんだなんて言って笑っていたんですがね。

昨年(2016年)10月に、いつも中心になって世話役をやってくれていた友人が亡くなり、とうとう向こうの世界のほうが多くなりました」

──作家として老いて死ぬということは。

「老いてゆくことは自分の日常にあるわけですが、作家というのは現実世界とは違う、別の世界を想像力と言葉によって創りあげてゆく。それが書くという仕事かなと思います。

俺はどうなってしまうんだろうということを、考えながら書いてゆくのは難しいことですが、それをする。そして、死は誰にも等しく訪れるわけですが、それを見届けて、何かの形で記録し表現する。そうすることが作家として老いて死んでゆく、ということになるんじゃないかと思います」

──小説はずっと書き続けますか。

「書き続けたいですね。自分としては、書いているときがいちばん充実した気持ちでいられますし、小説そのものじゃなくても、とにかく何か書き続けていたいと思います。

よく、生涯の仕事を成就まっとうして逝くのが立派な生き方だといわれます。でも、完成されて残ったものだけがライフワークなら、成就できない計画は最初から立てない、そうすれば間違いないわけですから。でも、それまでは自分でどんどん先の可能性を切ってしまうことになるんじゃないか。

私は志半ばで逝っていいと思います、人生というものは途中で切れるのが自然なんだから。道半ばでいい、行けるとこまで行くという気持ちが強ければいい。自分が力いっぱいやってゆけば、途中で切れても、そんなに残念ではない。途中で終わった、その切れ目のところに自分がいる。ライフワークというのは、自分をかけてそこまでやった仕事のことです」

●黒井千次(くろい・せんじ)
昭和7年、東京生まれ。同30年、東京大学経済学部卒業、富士重工業入社。傍かたわら小説を書き続け、昭和45年『時間』で芸術選奨新人賞。同年に富士重工業退社。以後、谷崎潤一郎賞、読売文学賞、毎日芸術賞、野間文芸賞等を受賞。代表作に『群棲』『羽根と翼』『一日 夢の柵』等。芥川賞選考委員、日本文芸協会理事長等を歴任。現在は日本中国文化交流協会会長、日本芸術院院長。

※この記事は『サライ』本誌2017年3月号より転載しました。肩書き等の情報は取材時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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