文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「従来買主として受けし多くの苦き経験に鑑み、飽くまで誠実真摯なる態度を以て、出来る限り大方の御便宜を計り、独立市民として、偽少なき生活をいたしたき希望に候」
--岩波茂雄

夏目漱石の門下生のひとりである岩波茂雄が古本屋の「岩波書店」を開業したのは、大正2年(1913)の8月5日だった。掲出のことばは、その挨拶状に記されたものである。

そこには、自分自身が学生時代から顧客として古本屋に出入りしていて味わわされた苦渋の思いがにじんでいる。金に困って手元にある本を売りに行くと、古本屋はひどく買い叩く。そのくせ、売る段になると高い金額をふっかけようとする。古本屋としてはその価格差が利ざやになるのだから当然のようにも思えるが、岩波はそこにともすると行き過ぎや不透明さがあるのを感じていた。自分で古本屋を開くからには、売りたい人からは出来るだけ高く買い取って、買ってくれる人には出来る限り安価で売っていきたい、というのである。

もちろん、赤字で商売しようということではない。ボロ儲けをしようなどと企まず、適正な取引で薄利多売を目指すことを宣言したわけだ。それも、「正価販売」による透明性にこだわった。

近隣の古本屋からは、そんなやり方では3か月もすれば立ち行かなくなってしまうだろうと、冷やかな目が向けられていたという。しかし、実際にはこの「誠実真摯な態度」が次第にお客さんの心を掴み広く支持されるようになっていく。

一高時代からの友人で同じ漱石門下の安倍能成が、後年、岩波茂雄の人物の「えらさ」についてこう記している。

「そのえらさの最も大きな表現として、古本正価販売ということがある。これは無論勇気果断を要することだが、その根底に虚偽と掛引を極度に嫌う性格と、頑固な道徳的信念とがなければできることではない。(略)たかが古本の正価販売だといって馬鹿にするかも知れぬが、これは東京中、日本中の商習慣に全面的に叛逆する行為であった。それにも拘らず岩波はそれを自分の店で敢行した。そうしてそれがだんだんと原則的に普及するようになったのである」(『岩波茂雄伝』)

古本屋が軌道に乗ってきた岩波は、やがて出版業へと進出していく。

それを力強く後押ししたのが、師の漱石だった。漱石は大正3年(1914)9月、朝日新聞に連載した小説『心』の単行本を岩波書店から刊行する。その際、十分に資金的余裕のない岩波茂雄のことを慮り、漱石はこの本を、ほとんど自費出版に近い形で世に出したのだった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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