文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「慶喜は徳川を潰した人、私は建てた人」
--徳川家達

明治維新により徳川幕府が瓦解したあとも、徳川宗家がつぶされたわけではない。新政府の大総督府は、大幅な減封の上で、徳川御三卿のひとつ、田安家の当主である田安亀之助に家督を継ぐことを許したのである。

ちなみに、御三卿とは、八代将軍徳川吉宗の子と孫が興した田安、一橋、清水の三家のことで、尾張、紀伊、水戸の御三家同様、将軍宗家の血筋が途絶えるようなことがあったとき、それを嗣ぐ家柄とされていた。

亀之助が徳川宗家の16代目となって名を家達と改めたのは、数え年で6歳のとき。駿府城主として与えられた石高は、駿河国を中心とする70万石だったから、従来の10分の1。江戸から静岡へ移住した際、付き従ったものはわずかに100 名ほどだった。家達は質素な暮らしをしながら、藩校で漢学、英語、書道、乗馬、剣術などを学び藩主としての教養を身につけたという。

明治4年(1871)に藩が廃絶され県となると、中央から県令が派遣され、知藩事は旧地から引き離されて東京に住むことを強いられた。家達も上京し、まもなく赤坂に落ち着いた。その敷地内の別棟にいたのが、13代将軍徳川家定の正室である天璋院篤姫だった。篤姫は家達の教育に心を砕き、家達も篤姫を母親のように慕ったという。その篤姫の影響か、家達は慶喜を嫌っていた。掲出のようなことばを時折口にし、「16代様」と呼ばれることを嫌がった。「徳川家は15代で終わっている。私は明治天皇のお慈悲をいただき、新たに家を立てたのだ」というわけだった。

時代の荒波に抗して己を貫いていこうとする、男の意気地のようなものを感じさせる台詞であろう。

明治10年(1877)から5年間、家達はロンドンに留学した。帰国後、五摂家筆頭の近衛篤麿の妹の泰子(ひろこ)と結婚。その後、華族令の制定で公爵となり、明治36年(1903)には貴族院議長に就任した。周囲からの信任もあつく、30年余にわたって同職をつとめ、大正3年(1914)には「内閣を組織するように」との大命降下までがなされた。これはすなわち、内閣総理大臣をつとめよとの意味だが、家達は一族とも相談の上、「自分は総理の器ではない」として、これを辞退した。

一方で、大正10年(1921)米国ワシントンでおこなわれた軍縮会議では、得意の語学と人脈、社交力にものをいわせ、見事に外交をこなしたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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