文・絵/牧野良幸
オーディオ小僧はレコードを聴くときは、仕事をしたり、スマートフォンを見たりしない。“ながら聴き”はしないのである。もちろん仕事中にも音楽を聴くが、その場合はパソコンやウォークマンで聴く。
なぜレコードで“ながら聴き”をしないかというと、アナログの暖かみのある音を味わいたいからだ。“ながら聴き”ではそこまで意識がいかないからもったいない。自分の歳を考えるとアナログ・レコードを聴く時間そのものが貴重とさえ思う。
だからレコードに針をおろしたらスピーカーに対座し、ただ音楽に耳を傾ける。それがオーディオ小僧の聴き方だ。しかしレコードを聴いていると、どこからか違う音楽が聞えだすことがある。まるでオカルトみたいであるが、現実の話である。
それは針を落としてから数分するとおこる現象だ。最初は音楽を楽しんだり、レコードの音に舌鼓を打っているのであるが、しばらくすると、どこからともなく「“眠れる”の森の美女」が始まるのである。チャイコフスキーの名曲のようで、そうではない。ただ、とても心地良い。
と、そこに平井堅があらわれ「瞳をとじて」を歌い出す。やがてオーディオ小僧の脳内に「“幻想”交響曲」が鳴り響く。ついにはゴンドラに揺れているような「舟歌」とともに、遠いところに連れていかれてしまう。
* * *
もうお気づきであろう。その正体は睡魔である。アナログ・レコードに限ったことではないが、音楽を聴いていると、いつしか眠ってしまうことがあるのだ。眠らないまでも、意識が飛んでしまっていることがある(同じことか)。
眠たくなるのは静かな曲とは限らない。むしろクラシックよりはロックのほうが眠気は深い気がする(ハンマーで殴られたような一撃だ)。よく「うるさいから眠れない」という言い方をするが,音楽はうるさいほうがよく眠れると思う。
あと曲が退屈だから睡魔がおきるともかぎらない。たとえ大好きな曲でも睡魔は遠慮なくやってくる。ということは音楽のジャンルや好みと睡魔は関係がないのかもしれない。レッド・ツェッペリンのハードなナンバー「ブラック・ドッグ」でも子守唄になるのである。
それにしても、どんなに深い睡魔でもレコードの片面が終わる前に、自然と目が覚めるのだから不思議だ。はっと意識が戻ると音楽はまだ続いている。針はまだレコードの終わりに行きついていない。ということは眠っていたのは思ったよりも短い間だったことになる。
こうしてオーディオ小僧は何事もなかったかのように針を上げる。レコード盤を裏返しB面に針を落とす。するとまた「“眠れる”の森の美女」が聞こえだす……。他人から見たらひたすら音楽に耳を傾けている人間に見えるだろう。しかし実のところ”眠れる”オーディオ小僧なのである。
文・絵/牧野良幸
1958年 愛知県岡崎市生まれ。イラストレーター、版画家。音楽や映画のイラストエッセイも手がける。最近『僕の音盤青春記 花の東京編 1981-1991』(音楽出版社)を上梓した 。公式ホームページ http://mackie.jp
『僕の音盤青春記 花の東京編 1981-1991』
(牧野良幸著、定価 2,000円+税、音楽出版社)
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