「小学生が遠足に出るような気持ちだね」(十河信二)【漱石と明治人のことば324】

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文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「小学生が遠足に出るような気持ちだね」
--十河信二

十河(そごう)信二は明治17年(1884)愛媛県で生まれた。一高を経て東京帝国大学を卒業。鉄道院に入った。

この鉄道院入りには、ちょっとした逸話がある。

はじめ十河は、大学で学生の就職の世話を受け持つ教授の紹介で農商務省への就職を決めていた。ところが、その数日後、郷里の先輩で鉄道院理事をつとめる人の勧めで、鉄道院総裁の後藤新平に会うことになった。

後藤は「大風呂敷」といわれるほど雄大な夢を語る一方で、時代を先取りする合理的な精神の持ち主。会うとたちまち魅了されてしまい、十河は言った。

「鉄道院で雇ってくださるなら、教授にお許しをもらって、農商務省の方を断ってきます」

ここから、十河と鉄道が深い縁で結ばれることになるのだった。

とはいえ、鉄道畑一筋に歩んだわけではない。

関東大震災後は、震災復興に当たる帝都復興院初代総裁に後藤新平が任命されたことから、十河も呼ばれ、経理局長をつとめた。この仕事はのちに、思わぬ事件につながる。区画整理用地の買収や海外からの木材輸入にからむ収賄があったとの嫌疑がどこからか浮上し、十河は逮捕されてしまうのである。本人に身に覚えはなかったが、無罪を勝ち取るまで3年余の辛酸をなめねばならなかった。

戦後の十河は、愛媛県西条市長、鉄道弘済会会長をつとめたが、引っ張りだされる形で、公社となって新発足した国鉄の第4代総裁となった。

総裁を引き受けるに当たり、十河には、どうしてもやり遂げたい事業があった。それは東海道に広軌新幹線をつくることであった。十河は技師長に島秀雄に据えるなどして、この計画を懸命に推し進めた。建設予算をわざと半分程度に見積もって国会を通すなど、強引な手法もとった。腹を決めてそこまでやらねば、かつて後藤新平とも語らった夢の計画は前に進まなかったのだ。

しかし、こうした強引な手法の反動が、新幹線の完成間際になっての総裁退任という結果を呼び込んだ。

あとから振り返ると、東海道新幹線は随分とスピーディ、かつ安上がりに出来た。着工から3年半で完成し、1キロ当たりの工事費は約7億円だったという。これは20年後に出来た上越新幹線の8分の1以下の数字だった。

十河が国鉄総裁を退任してから3か月後の昭和39年(1959)8月24日、東京・新大阪間で新幹線の営業ダイヤによる初の試運転が実施された。その試乗に招待された十河が、記者たちに囲まれ、ぽつりと呟いたのが、掲出の「小学生が遠足に出るような気持ちだね」という一言だった。素朴な喜びようだが、このとき十河の頬に浮かんだ笑みは、どこか寂しげだったという。

昭和56年(1981)10月、十河は97歳の生涯を閉じた。郷里の愛媛から上京して葬儀に出席した十河同族会の会長が、十河信二の遺影と戒名の写しを持ち帰ることになっていた。遺族の希望により、移動の交通手段は飛行機から新幹線に変更され、遺影は東京駅から「ひかり」号に乗せられた。

国鉄関係者がこれを聞きつけ、急遽、グリーン車の座席に遺影を安置する場所がもうけられた。停車駅では、どの駅でも、駅長をはじめとする国鉄職員がホームに並び、窓際に掲げられた十河の遺影に深々とお辞儀したという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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