今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさえたものでしょう。それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ」
--高村智恵子
高村智恵子は、明治・大正期に登場したいわゆる「新しい女」のひとりであった。上のような台詞をさらりと言ってのけ、こうつづけた。
「わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たった一度きりしかない生涯ですもの」
ことばにしてみれば当たり前のようだが、実践するのはなかなか簡単ではない。でも、新しい女はその垣根を跳び越える。洋行帰りの彫刻家で詩人の高村光太郎と同棲し(のちに入籍)、貧しさに喘ぎながら芸術精進の生活に邁進したのも、自分自身の生き方を貫くためであったろう。
旧姓は長沼。明治19年(1886)、福島で酒造業を営む家に生まれた。日本女子大家政学部では、のちに女性運動家として活躍する平塚らいてうの1年後輩。在学中は絵画、テニス、自転車などに熱中した。卒業後も帰郷せず東京にとどまり、太平洋画会研究所で絵の勉強をつづけた。
明治45年(1912)、平塚らいてうが中心となって女性のための女性による文芸雑誌『青鞜』を創刊したときは、表紙絵も描いた。
智恵子にとって、ふるさとの福島はかけがえのない場所だった。愛する光太郎と暮らしながらも、安達太良山の上に広がる青い空にいつも焦がれていた。健康のすぐれぬときは里帰りすることで回復した。ところが、その生家が破産。帰る場所を失ったショックと芸術的な行き詰まりから、智恵子の精神は引き裂かれた。光太郎はやむなく、東京・南品川の病院に智恵子を入院させた。智恵子は気分の落ち着いているときには病室をアトリエにして、美しい紙絵作品をつくった。
昭和13年(1938)10月、智恵子はその病院で53歳の生涯を閉じる。見舞いに訪れた光太郎の差し出すレモンを待ち焦がれていたようにガリリと齧ると、その香気に洗われたように表情は正気に戻り、愛する夫に手をとられながら絶命した。
死後も智恵子の魂は光太郎の中に宿り、生き続け、詩集『智恵子抄』が生まれることになる。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。