今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】

「いわゆる人生の意味というやつは、与えられた時間内で自分のしたいことをするだけのことでさあ」
--田辺茂一

紀伊國屋書店の創業者であり文筆家でもあった田辺茂一は、明治38年(1905)東京に生まれた。一般に「もいち」と呼び習わされているが、本名は「しげいち」だという。

生家は裕福な薪炭問屋。少年時代から無類の本好きで、店の帳場から勝手に金を持ち出して、手当たり次第に本を購入し読みあさっていたという。親も知っていながら黙認した。のちに自身がエッセイの中でこう言い放っている。

「親のものは子のものである。まして、私は一粒種の、家の大黒柱の卵なのだ」

良くも悪くも、既成の常識の枠は跳び越えている。後年、毎晩のように銀座界隈を飲み歩き、「夜の市長」の異名をとった片鱗が、早くも覗いている。ちなみに、以下が「夜の市長」の飲みっぷり。

「一二軒では飲んだ気がしない。次第に気が大きくなる。三軒目、四軒目となると、経済観念などはなくなってくる。(略)浪費が目的のような酒である。酒の功徳は闊達な浪費だと、考えてござる」(『梯子酒の戒め』)

もっとも多く飲み交わした酒友は、作家の梶山季之だった。

慶応義塾の卒業を間近にしたある日、田辺茂一は日本橋の丸善の2階で革の背表紙の本が並ぶ本棚を見た。そのとき直感的に「本屋をやろう」と思ったという。薪炭問屋の跡継ぎにしようと考えていた父親は、当然反対する。田辺はそこで、先に他界した母親を持ち出す。母親が亡くなる寸前、まだ中学生だった自分に、「きっと本屋になるんだよ」と思いを託したというのだ。父親は致し方なく諒承する。が、これは田辺の作り話であった。

本屋修業についても、田辺らしい逸話が残っている。

本屋を開くのはいいが、その経営について、田辺には何のノウハウもない。そこで銀座の老舗書店「近藤書店」に頼んで小僧として雇われ、筒袖、角帯に前掛け姿で店頭に立った。ところが、わずか数時間後、田辺は店の主人に、こう挨拶した。

「いろいろありがとうございます。これで辞めさせていただきます」

店頭に立つこと数時間で本屋の仕事の概略は掴めたから、長居する必要はないというわけ。早くから薪炭問屋の帳場に座って、商売そのものの心根は、体の奥にしみついていたのだろう。

書籍・雑誌売場に画廊を併設し、美術雑誌や文芸雑誌も創刊した田辺の書店経営は、時代の波をつかみ大いに当たった。のちには劇場もつくり、紀伊國屋書店は単なる本屋でなく、ひとつの文化の発信基地となっていく。

田辺は酒だけでなく、女性遍歴もなかなかのものであった。見合いによる一度の結婚と離婚ののち、終生独身を貫くのだが、プロポーズしてはふられるという場面も、繰り返しあったらしい。それを苦にするでもなく、随筆のタネにした。むしろ「憂き目」を見ることから人生の妙味が知れると、とらえていた。

『穀つぶし余話』の中で、田辺は閻魔(えんま)大王にこう述懐している。

「思えば五十有余年、ワッチも生きてきたわけですがね。いわゆる人生の意味というやつは、与えられた時間内で自分のしたいことをするだけのことでさあ。酒を飲みたい奴は飲めばいいし、数字の計算だけをしたい奴はそれをすればいい。金を貯めたくって仕方のない御仁は、それをすればいい。それだけのこと。(略)みんな自分の宝を追っかけている」

昭和56年、76歳で没。晩年に至り着いた境地を、田辺はこんなふうにも表現している。

「漂っていればいい。泳ぐから疲れるのだ。漂っているだけなら、万端、楽である」

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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