文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「詩は国民の精髄なり、大国民にして大詩篇なきもの未だこれあらず、本邦の前途をして多望ならしめば、本邦詩界の前途また多望ならずんばあらず」
--土井晩翆
明治31年(1898)、東京音楽学校が中等唱歌集の編集を企画し、詩人たちに詩作を依頼した。求めに応じて土井晩翆が紡ぎ出したのが『荒城の月』だった。
この詩をつくるに際し、晩翆の頭にまず浮かんだのは、明治元年秋に戊辰戦争で落城した会津若松の鶴ヶ城だった。晩翆は学生時代、この城や白虎隊殉難の飯盛山を訪れ、深い感慨を胸に刻みつけていた。幼少から馴れ親しんだ故郷・仙台の青葉城も、詩想をふくらませる助けとなったという。
その後、滝廉太郎作曲の、美しくも愁いを帯びた旋律と結びつくことで、この詩は日本人の心の奥底にある無常観と響きあって広く愛唱され、不朽の国民的名作となった。
一方で、その漢語調の詩は、現代の子供には難解であろう。脚本家で作家の向田邦子も、子供の頃、「春高楼の花の宴/めぐる盃影さして」の「めぐる盃」を「眠る盃」だと思い込んで歌っていたと、エッセイの中に書き残している。
土井晩翆は、明治4年(1871)生まれ。生家は仙台で長く質屋を営む富裕な家柄だった。父親は滝沢馬琴を崇拝し、和歌や俳句にも親しむ文学趣味を有していた。晩翆も自然とその感化を受け、早くから『八犬伝』『太閤記』『三国志』『水滸伝』などを愛読したという。
本名は林吉。姓の土井の読みは、もともと「つちい」であり、本人もずっと「つちい・ばんすい」で通していたが、60代半ば以降「どい」に読みを改めている。
土井晩翆は、男性的で硬派型の詩人といわれた。第一詩集『天地有情』の序文にも掲出のようなことばを綴り、詩の未来に国の発展を重ねていた。
「史的譚歌(たんか)」と評される歴史を材とする大長篇詩も、晩翆の得意とするところであった。その代表作は、たとえば諸葛亮孔明を詠じた『星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)』。「祁山(きざん)悲秋の風更けて/陣雲暗し五丈原/(略)功名いづれ夢のあと/消えざるものはただ誠」とうたってゆく雄渾かつ悲愴な調べは、明治期の高揚する精神を胸に抱く青年たちの間で熱烈に支持された。
一方で晩翆は、母校である仙台二高の教授を長くつとめた。英文学者として夏目漱石と同時期に欧州留学し、10日間ほどロンドンの同じ下宿に暮らしてもいる。
専門の英文学はもとより、漢学や独仏の文学にも通暁する博識の人。晩年はギリシア語を学び、ホメロスの二大叙事詩の翻訳を完成させた。太平洋戦争末期、米軍の空襲で自宅を焼かれたとき、失った蔵書の数は3万巻にものぼったという。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。