文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「筆をもって絵を習うことはそう大騒ぎをしなくてもよいのです。それよりも人物をつくることが大事で、それを土台にしないことにはいくらやっても駄目なことです」
--横山大観
近代日本画壇の巨匠といわれる横山大観は、明治元年(1868)水戸に生まれた。幼名は秀蔵、のち秀麿と改名。「大観」の雅号は、京都の禅寺で、坊さんと酒を飲んでいたときにお経の文句から思いついたものという。
水戸藩の士族だった父親が、維新後、測量や地図の製作を仕事としていたため、はじめ大観も大学の工科に学んで建築設計方面に進みたいと思っていた。
ところが、その前段階で、大学予備門と同附属英語専修科のかけもち受験をとがめられて失格処分を受ける。仕方なく私立東京英語学校に入学したあたりから運命が転じていく。以前から絵の好きだった大観は、同校在学中、洋画家の渡辺文三郎に鉛筆画を学び、卒業間際、東京美術学校創設の話を耳にした。その途端、美校へ進学して画家になりたいという思いが、大観の胸の中にむくむくと沸き上がったのである。
東京美術学校の第1期生となった大観は、橋本雅邦に学ぶ一方で、校長の岡倉天心に啓発を受けた。卒業後は、京都市美術工芸学校教員を経て母校の図案科の助教授をつとめたが、岡倉天心が排斥されて美校を去るとき、大観も殉じて辞職した。橋本雅邦、寺崎広業、下村観山、菱田春草、西郷孤月らも行動をともにした。岡倉天心は彼らとともに日本美術院を創設する。
その第1回展に大観が出品したのが、いわゆる朦朧体で新しい日本画創造を目指した「屈原」だった。これは、しかし、世間からは酷評された。この仕事上の苦悩は、自ずと物質上の苦しみと重なる。そこに相次いで肉親が逝去し、親友・菱田春草や師・岡倉天心の死までが押し寄せた。大観自身、「まことに苦しい、また語るに忍びない時代でした」と語る歳月が、しばらくつづくのである。
だが、大観はその苦難を乗り越え、岡倉天心の一周忌には美術院を再興。この頃から画壇に確かな地歩を築いていった。
掲出のことばは、自らの半生を語った『大観画談』の中の一節。つづけて大観はこう述べている。
「人間ができてはじめて絵ができる。それには人物の養成ということが第一で、まず人間をつくらなければなりません」
人間としての内面形成をないがしろにして、いくら小手先の技術の巧さだけを磨いても、決していい絵は描けないと、大観は言うのである。
大観は、師譲りの大酒家でもあった。もっぱら広島の酒「酔心」を愛飲した。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。