文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「見つつ行け旅に病むとも秋の不二」
--夏目漱石
愛媛県松山市二番町の料理屋「花廼舎(はなのや)」で、正岡子規の送別会が開かれたのは、明治28年(1895)10月12日であった。出席者は、柳原極堂をはじめとする俳句結社「松風会」の面々。それに夏目漱石と子規を含め総勢18名の会となった。
漱石はこの半年前から、東京を離れ、中学の英語教師として松山に赴任している。一方の子規は、大学を中退して新聞「日本」の記者となり東京で働きはじめると、故郷の松山から母と妹を東京・根岸に引き取っている。もともと松山人である子規が、江戸っ子である漱石に送られて松山から東京へ帰るという、ちょっとおかしな図式が生まれていた。
今や東京暮らしの子規が、この頃なぜ松山にいたのか。
子規はこの4月、日清戦争末期の中国大陸に従軍記者として渡り、帰国の船上喀血して倒れた。神戸で入院しどうにか生命の危機を脱したあと、すぐには東京に戻らず、療養のため松山にやってきた。そんな子規を漱石が引き受けた。そうして、漱石の下宿している上野家の離れ、名づけて「愚陀仏庵」で、しばし同居生活を送っていたのである。
送別会の席上、漱石は子規のために、掲出のものも含め、次のような送別の5句を詠んだ。
「疾く帰れ母一人ます菊の庵」
「秋の雲只むらむらと別れ哉」
「見つゝ行け旅に病むとも秋の不二」
「この夕野分に向て分れけり」
「お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花」
東京で待つ母親のもとに早く帰りなさい。折角だから旅の途中、天下の明峰・富士(不二)も仰いでいけばいい。病を抱えていても見るべきものは見ていくさ。さあ、お立ちなさい。別離の哀しさを飲み込んで、友の背中を押し励ますような心持ちがあふれている。
掲出句にもう少し踏み込むと、不二は富士山そのものに限定するより、見るべきものの象徴ととらえた方がいい。「旅に病むとも」は、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を受けながら、文人としての覚悟を互いの胸の底で確認した表現だったろう。
子規が去ったあと、漱石のもとに残された置土産は、ともに過ごした50余日の友情の日々の余韻と、子規が勝手にとって食べまくっていた鰻の蒲焼の出前の勘定書き。漱石はさらに、東京までの路銀の足しとして子規に10円の餞別を渡したという。
この10円を元手に、途中、富士ならぬ古都奈良を見物することで、子規畢生の名句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が生まれることになる。この句は、子規と漱石の友情の結晶でもあったのである。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。