文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「自己の歌をなすは、全身の集中から出ねばなりません」
--島木赤彦

アララギ派の歌人・島木赤彦が長男の政彦を亡くしたのは、大正6年(1917)12月18日だった。このとき赤彦は41歳、政彦はまだ17歳だった。政彦は早世した先妻の忘れ形見である上に、2歳で眼病を患ったため、父親たる赤彦が手を引いて歩かせた愛児でもあった。赤彦は深い悲嘆の底に沈んだ。

年が明け、服喪の正月を過ごした赤彦は、やるせない思いを抱いたまま雪の善光寺に詣でる。寒風にかじかむ手を思わず懐に入れると、そこには真新しい位牌がある。長男の位牌を寺に納めるための、哀しい参詣だったのである。

この悲痛は、結果として、歌人としての島木赤彦を磨き上げていく。同門の友である斎藤茂吉も、『アララギ二十五年史』にこう記している。

「長男の政彦君が病没した。これは赤彦君にとって非常な悲痛事であった。そして、赤彦君の歌はこの年を越えて愈(いよいよ)本格になったように思えるのである」

島木赤彦は明治9年(1876)、長野県諏訪郡上諏訪村に生まれている。祖先はもともとは、武田信玄に仕える武士だったという。明治維新後、武士階級そのものがなくなる中で、赤彦の父は学校教員となった。

赤彦自身も、すぐれた教育者だった。諏訪高等小学校を出て、10代半ばで代用教員となったのが始まり。その後、長野県尋常師範学校を卒業し、いくつかの学校で教壇に立ち、校長までつとめた。

若い頃の赤彦は、スパルタ方式の熱血教師だったという。とはいえ、奥底にはやさしさを秘めていた。こんな逸話がある。あるとき、教え子のひとりが師範学校受験を前に肺炎にかかった。赤彦は病床から起き上がったばかりのこの生徒を、自らの背におぶるなどして試験会場に連れていき、無事合格に導いたというのだ。

一方で、赤彦は歌づくりへの情熱も早くから持ち続けていた。生半可でない厳しさを自他に求め、「鍛練道」「歌道即人生道」を訴えた。掲出のことばも、そんな赤彦ならではのもの。「歌の道は、決して、面白おかしく歩むべきものではない」ということばをも残している。錬磨の積み重ねの末、赤彦の歌は、晩年には、人間の孤独を静かに見つめる「幽寂境」にまで至り着いていく。

大正15年(1926)3月27日、島木赤彦は、40余人もの親戚、友人、門弟らに見守られ49歳で逝去する。死の2日前、枕頭の人々に「ありがとう」と述べた謝辞が最後の言葉だった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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