■人気グループのジャズ魂
では、今号登場のヴォーカリストを紹介していきましょう。
デューク・エイセスは昭和を代表するコーラス・グループです。1955年(昭和30年)、当時の人気グループ「伊藤素道&リリオ・リズム・エアーズ」のメンバー和田昭治と現在のリーダー谷道夫が出会い、意気投合して結成された男性4人のグループです。「デューク・エイセス」とは「トップの公爵たち」という意味で、彼らの心意気を示しています。エイセスは当初R&B(リズム・アンド・ブルース)や黒人霊歌といったブラック・ミュージックを目指し、東京・立川などにあった米軍基地を回って腕を磨きました。
そして、その後多くのファンの要望に応えるため路線を転換し、59年には落語の歌シリーズの第1作として『寿限無』を発表したり、66年には『にほんのうたシリーズ』でレコード大賞企画賞を受賞したりしているので、一般的にはあまり「ジャズ・ヴォーカル・グループ」としてのイメージはもたれていないかもしれません。しかし、62年にジャズ専門誌『スイングジャーナル』の人気投票で、ヴォーカル・グループ部門の第1位を獲得して以来、15年間もトップの座を守り続けた事実は、当時のジャズ・ファンの目から見ても、第一級のヴォーカル・グループと認められていたことを示しています。
彼らが多くのファンの目に留まったのはテレビ放映で、NHK『夢であいましょう』(61〜66年)にレギュラー出演したことがきっかけとなりました。63年に番組で歌われた中村八大作曲、永六輔作詞による「おさななじみ」が大ヒットし、以来日本の実力派ヴォーカル・グループのトップを歩む人気グループとなったのです。
率直に言って、日本では彼らほどの人気はとうていジャズ・ファンの数だけではまかないきれず、ポピュラーな楽曲をレパートリーとするのはやむをえません。しかし一過性の人気歌手とはレベルが違う彼らのコーラスの実力は、ジャズを歌う場面がくればすぐにそれに適応できる能力が備わっているのです。
今回は81年にコンコード・オールスターズと共演したアルバムから2曲収録していますが、そのスイング感、リズムの切れ味は爽快そのものです。
■昭和ジャズの歌姫たち
第6号「昭和のジャズ・ヴォーカルvol.1」に登場した弘田三枝子は、まさに戦後世代を代表する歌い手と言っていいでしょう。というのも彼女は1947年(昭和22年)に生まれており、いわゆる「団塊世代」ど真ん中。じつをいうと私もそうなのですが、この世代は物心つくころ「洋楽」の洗礼を受け、日本の音楽シーンが大きく転換していくさまを実体験しているのですね。それだけに弘田の、ジャズに対する思い入れも強く、65年に日本人歌手として初めて「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に出演するという快挙を成し遂げています。
女は音楽的にはきわめて早熟で、まだ小学生の7歳のときから米軍基地で歌っています。そんな彼女にチャンスが訪れます。当時カヴァー・ポップスを出し始めていたレコード会社、東芝音楽工業の敏腕ディレクター、草野浩二の目に留まったのです。カヴァー・ポップスとは、海外でヒットしたポピュラー・ミュージックを日本人歌手に歌わせる60年代に興った動きで、そこから坂本九や弘田三枝子といった新しいタイプの歌い手が育っていったのですね。
この時のデビュー曲がイギリスの歌手ヘレン・シャピロのヒット曲「子供ぢゃないの」「悲しき片想い」。そして翌62年にアメリカの歌手、コニー・フランシスが歌った「ヴァケイション」をカヴァーし、これが大ヒット、一躍驚異の新人歌手として注目を集めたのです。そして65年のニューポート出演に繫がるのですが、もうひとつ彼女の経歴で注目すべきは、68年に当時日本ではまだ一般的
ではなかったR&Bのコンサートを開いていることです。ジャズ以上に「黒っぽい」といわれているR&Bに、早くも60年代に目を付けたセンスはなかなかのものです。
マーサ三宅は生粋のジャズ・ヴォーカリストです。それにもかかわらず、クラシックの音楽学校出身というのも変わっていますね。要するに「時代」の制約で、音楽学校は出たけれど、「戦後」のどさくさで生活のために米軍キャンプ周りをするなど、ジャズ歌手の方向へと舵を切ったわけです。しかし結果としてそれは正解で、彼女は日本のジャズ・ヴォー
カル界に大きな貢献をしています。70年代に「マーサ三宅ヴォーカル研究所」を設立し、プロ歌手はいうまでもなく、アマチュアへも門戸を開いて日本のジャズ・ヴォーカルの層の拡大に力を尽くしたのでした。
その陰には、大橋巨泉という大物ジャズ評論家の存在があったことも忘れてはいけないでしょう。マーサは彼と結婚していた時期があり、音楽学校での正統的音楽理論と、巨泉譲りのジャズ・スピリットがうまい具合に融合したところに、マーサの正統派ジャズ・ヴォーカルがあり、また、後輩指導という他の歌い手ではこなしきれない大役を果たすことができたのです。
金子晴美の初レコーディングは1979年(昭和54年)ですから、昭和といっても末期から活躍を始めたジャズ・ヴォーカリストと言っていいでしょう。彼女は50年(昭和25年)に東京で生まれ、獨協大学を卒業した後、日本のジャズ・ヴォーカルの草分け的存在であり、マーサ三宅や佐良直美も師事した水島早苗のヴォーカル研究所で研修を重ねます。その後ジャズ・クラブに出演するうちチャンスを摑みます。
『スイングジャーナル』の編集長を長く務めた後、プロデューサーに転身した児山紀芳に見いだされ、79年にデビュー・アルバム『アイ・ラヴ・ニューヨーク』(フィリップス)をニューヨークで録音することとなったのです。結果も上々で、新時代のヴォーカリストとしてジャズ・ファンの注目を集めるに至ったのです。彼女は弘田三枝子などとは違い、言わば「純ジャズ歌手」としてデビューしたため、一般的知名度こそ高くはありませんが、その素直でストレートな歌唱は多くのファンに支持されています。
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