文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「私は食いしん坊であるが、食べるのが面倒である。御馳走のないお膳は嫌いだが、そこに有りさえすれば無理に食べなくてもいい」
--内田百閒

内田百閒(うちだ・ひゃっけん)は夏目漱石晩年の門弟のひとり。東京帝国大学卒業後、陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学などの教職を歴任。傍ら、幻想的な雰囲気漂う小説のほか、『阿房列車』『百鬼園随筆』『御馳走帖』などの名随筆を綴った。

明治22年(1889)岡山の生まれ。造り酒屋の長男で、祖母や母に溺愛されて育ったという。たとえば、こんな話がある。百閒は自分が丑年生まれだったので、牛のオモチャをたくさん買ってもらっていた。そのうちにオモチャでは飽き足らなくなり、「本物の牛を買ってくれ」と言い出した。ところが、驚くべきことに、このわがままも、まもなく叶えられた。自宅の座敷に近い庭に牛小屋をつくってもらい、農家から買い求めた黒い牡牛をそこで飼ったのである。

百閒は酒好きでも有名だった。長年にわたってお世話になっている身で、とても呼び捨てにはできないし、できた義理ではないと、「お酒」と尊称をつけて呼んでいた。戦時中の昭和20年(1945)5月、東京・麹町の自宅を空襲で焼かれたときも、炎に追われるように逃げ出した百閒の手に握りしめられていたのは、愛玩のメジロの鳥籠と飲みかけの一升瓶だけ。他の雑多な重たい荷物は、小柄な奥さんが両手、背中、胸と、全身を使って担いでいたという。

わがままでヘソ曲り。斜に構えて世の中を睥睨(へいげい)する。そんな視線ゆえに、かえって百間の随筆には滋味とユーモアがあふれていた。

いい例が、次のような一文。

「人はよく、お金の有り難味と云う事を申すけれど、お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存する」
「酔うのはいい心持だが、酔ってしまった後はつまらない。飲んで
いて次第に酔って来るその移り変わりが一番大切な味わいである」

掲出のことばも、これらと同じく、よくはわからないながら、妙な説得力と面白さとを含んでいるのだった。

熟年期に入った百閒が好んで食卓にのせたのは、シャンパンだったという。ちょっと高価な飲み物だったが、これに合わせる最適の肴は、おからだとした。家畜の飼料にも使われていた安いおからで高価なシャンパンを飲むのが、百閒ならではのバランス感覚だったのだろう。

昭和46年(1971)4月、病床の百閒はストローでシャンパンを飲んだあと、主治医にみとられ静かに息を引き取った。81歳の大往生だった。最後の随筆集『日没閉門』ができあがったのは、その翌日だった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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