文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「熱中する 夢中になる そして何かが生れる」
--宇野千代

全12巻からなる『宇野千代全集』が中央公論社から刊行されたのは、昭和52年(1977)7月から翌年6月にかけてだった。宇野千代は明治30年(1897)11月、山口県に生まれているから、全集完結時の年齢は80歳。『刊行にあたって』と題する文章の中で、自身の文学的足跡を思い、しみじみと綴っている。

「二十歳の齢から始めた私の仕事は、殆ど六十年間も、続けて来たことになる。その長い間、私は自分で撰んだこの道筋と方向とを、踏み迷うことなく、曲りなりにも、今日まで歩いて来たことについて、神さまにお礼を言いたい気持になる」

本人はさらりと「踏み迷うことなく」と綴るが、基底にある私生活はけっして平板ではなかった。

函館在住の銀行員の妻であったのが、『時事新報』の懸賞小説に一等入選したのちに上京。尾崎士郎と出会ってたちまちのうちに恋に落ち、東京・本郷の菊富士ホテルに同宿。そのまま函館に帰ることなく馬込で新生活を始めた(のち夫と離婚し、尾崎士郎と正式に結婚)。その後、伊豆・湯ヶ島で梶井基次郎と出会い意気投合したことが恋愛沙汰のように誤解され、尾崎士郎との関係がもつれ、別離へとつながっていく。

一方で、千代は、情死未遂事件を起こした画家の東郷青児を、小説の取材のために訪問。そのまま同棲生活に入ってしまうのである。尾崎士郎との離婚が成立するのは、この同棲生活の最中。その後、東郷青児とも別れ、41歳で北原武夫と結婚。66歳で離婚している。

これだけの波瀾を体験しながら、千代は筆をとり書きつづけてきた。スタイル社を創立し、ファッション雑誌『スタイル』や文芸雑誌『文体』を創刊・運営したりもしている。

『生きて行く私』がベストセラーとなるのは、全集完結から5年後、85歳の頃である。

掲出のことばは、平成5年(1993)95歳のときの年賀状に、千代が書きつけたもの。なんという若々しさであろうか。尾崎士郎や東郷青児とまたたく間に恋に落ちた情熱を、まだ心の奥に秘めているかのよう。同じ頃、色紙にはこんな一文も書きつけている。

「この頃 思うんですけどね 何だか私 死なないやうな 気がするんですよ」

ことば通り、その後もなお現役をつづけ、没したのは平成8年(1996)6月10日。98歳の長命だった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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