今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
《旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも》
--三好達治
詩人の三好達治が、処女詩集『測量船』の巻頭に書きつけた短歌調の抒情詩である。ここには、魂の漂泊のようなものが刻みつけられている気がする。
三好達治の生涯には、幼少時から別離がつきまとっていた。
明治33年(1900)、大阪で印刷業を営む家の長男に生まれながら、6歳で京都・舞鶴の知人の家へ貰い子に出された。1年足らずで戻されたものの、大阪には帰らず、兵庫・三田の祖父母の家にひきとられた。
父親との決定的離別は21歳のときに訪れる。達治は当時、父の意をくみ陸軍士官学校に進んでいた。ところが家業が倒産。達治は学校を中退し再建に奔走したが、父との衝突もあって断念。まもなく父は出奔し、再び家に帰ることはなかった。
ちなみに、達治のその後の、京都三高、東京帝国大学への進学は親戚の援助に依るものだった。三高の上級生には、のちに貘逆(ばくげき)の友となる梶井基次郎がいた。
昭和2年、三好達治は伊豆・湯ヶ島で憧れの先輩詩人・萩原朔太郎と邂逅する。その頃、湯ヶ島には、梶井基次郎が結核の転地療養をかねた創作活動のために逗留していた。三好はそんな梶井を見舞うために、同地を訪問したのだった。
湯ヶ島は、川端康成が愛した場所でもあった。『伊豆の踊子』の下敷きともなった伊豆の旅(大正7年)以来、川端は湯ヶ島の湯本館を定宿として、まるで自宅書斎のように使っていた。川端にひきつけられるようにして、何人かの文学仲間もよく湯本館を訪れていた。その中のひとりに萩原朔太郎がいた。一方で、梶井も川端のもとに頻繁に出入りしていた。こうした縁で、三好達治と萩原朔太郎との交流が生まれたのだった。
萩原朔太郎と交遊を重ねるうち、三好はその妹アイと恋仲となった。昭和3年(1928)春、三好は東大仏文科を卒業すると、北原白秋の弟が経営していた出版社アルス社に就職した。アイの母親(朔太郎の母)が、アイとの結婚の条件として、三好に月給取りとなることを突きつけたからであった。三好の就職とともに、アイと三好の婚約が成立した。
ところが、当時の社会不況の中でアルス社の業績は悪化していて、まもなく人員整理に手をつけねばならぬ事態となった。三好は自ら身を退き、同時にアイとの婚約も解消のやむなきに至った。
昭和17年(1942)萩原朔太郎は没した。その葬儀の席で、三好はアイと再会する。悲しい別離から10数年の時が流れていた。このときアイは、作詞家で詩人の佐藤惣之助の後添えとなっていた。ところが、なんと、朔太郎の葬儀の2日後に未亡人となった。
この出来事に「運命」を感じた達治は、意を決して妻子を離別。アイと再婚し、越前・三国で暮らしはじめた。若き日に引き裂かれた恋を、取り戻して成就するつもりでもあったのか。
けれど、現実は青春の残夢のように甘くはなく、1年足らずで破綻する。アイは群馬・安中の母堂のもとに身を寄せた。49歳で東京へ舞い戻った達治は、以降、独居の下宿暮らしで通したという。
晩年の三好達治は相撲好きでもあった。とくに、昭和の名横綱である双葉山や若乃花が、土俵際に追いつめられても諦めることなく、強靱な足腰から、うっちゃりや上手投げで逆転する相撲を、賞賛と共感の目で見つめていた。
達治はどうやらそこに、自らの来し方を重ねていたらしい。戦中、戦後の厳しい時代状況の中、詩人として生きていくといっても、なま易しいことではない。妻子を離別してまでの再婚の破綻も、深い心の傷となっただろう。そんな中で、何度もぎりぎりのところに追い込まれながら、達治は投げ出すことなく立ち向かい、全身全霊で生き抜いた。持病をもちながらも心身を保ち、評論や随筆などの執筆に勤しみ、62歳の折には日本芸術院会員にも推された。
昭和39年(1964)4月5日、63歳で没。処女詩集『測量船』の刊行から34年の「航海」だった。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。