今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「長島茂雄はいつでもやっているのだ」
--サトウハチロー
『リンゴの唄』『二人は若い』『君の女房にゃ髭がある』など往年のヒット歌謡の作詞でも知られる詩人のサトウハチローは、大のプロ野球ファンであり、長島茂雄ファンでもあった。こんな詩もつくっている。
「疲れきった時/どうしても筆が進まなくなった時/いらいらした時/すべてのものがいやになった時/ボクはいつでも/長島のことを思い浮かべる/長島茂雄はやっているのだ/長島茂雄はいつでもやっているのだ/どんな時でも/自分できりぬけ/自分でコンディションをととのえ/晴れやかな顔をして/微笑さえたたえて/グランドを走りまわっているのだ/ボクは長島茂雄のその姿に拍手をおくる/(略)自分をきたえあげて行く/長島茂雄のその日その日に/ボクは深く深く頭をさげる」(『長島茂雄選手を讃える詩』)
超一流のスーパースターが、つねにスーパースターであるために、どれだけの鍛錬を欠かさずに積んでいるかに、詩人は感動し頭をさげるのである。
そんなサトウハチローは、「自分がプロ野球選手の元祖だ」と自慢げに語っていた。
ハチローは明治36年(1903)生まれ。日本初の職業野球チームである大日本野球倶楽部の結成は昭和9年(1934)だから、ハチローの青年期には、まだ日本にプロ野球がない。けれども、野球のうまかったハチローは、いくつかのチームに乞われて助っ人として駆けつけ謝礼をもらったりしていた。謝礼の内容はといえば、ビール1ケースなどと他愛のないものであったが、それでも日本球界における「プロの走り」だと胸を張るのであった。
ハチローが野球をはじめたきっかけは、小学校3年のときに叔父さんからキャッチャーミットをプレゼントされたことだという。もらったのがミットだったため、ポジションもおのずと捕手になった。中学(旧制)でも当然、野球部に入部。卒業後は、早慶明あたりのユニフォームを着て大学野球の花形選手として活躍する自分の姿を頭に思い描いていた。ところが、素行が悪い上に勉強も怠ったため落第と転校が続き、ついに中学を卒業できなかった。大学野球で活躍する望みは、はかない夢と消えた。
私は以前、岩手県北上市のサトウハチロー記念館を訪れ、詩人遺愛のキャッチャーマスクを見せてもらったことがある。革と布でできたドーナツ型の枠に、交差した鉄棒を紐でくくった素朴なつくり。それを矯めつ眇めつするうち、額部分に小さく手書きした「ユートピア」の文字を見つけた。その瞬間、空に谺(こだま)するハチロー少年の歓声が聞こえたような錯覚に襲われ、私は思わず小さく感嘆の声を上げた。この人は、ほんとうに野球が好きだったんだろうなア。
さて、次に紹介するのは、ハチローの自著『落第坊主』の中に綴られたエピソード。ハチローの父の佐藤紅緑も野球好きで、チームを作って草野球をしていた。ある日、紅緑のチームがハチローの少年野球チームと対戦した。この試合中、打者ハチローの打った打球が内野を守る紅緑めがけて転がり、あろうことか股間を直撃した。紅緑は痛さのあまり飛び上がる。そこへ、すかさずヤジが飛んだ。
「セガレがセガレを打ったわい」
いよいよ今年も夏の甲子園(第99回全国高等学校野球選手権大会)が始まる。六大学リーグで本塁打記録をつくり、プロ野球でスーパースターとなった長島茂雄選手も、実は甲子園出場は果たせなかった。帰らぬ青春のひととき。球児たちの健闘を祈る。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。