今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「実戦の時を考えろ、どこへ球が行くかわかるか」
--佐藤紅緑

佐藤紅緑は、夏目漱石とも交流のあった俳人・劇作家で、昭和に入ると少年小説の大家となった。『リンゴの唄』などで知られる作詞家で詩人のサトウハチロー、90歳を超えて今なお活躍中の作家・佐藤愛子の父親である。

野球が大好きだった小学生の息子ハチローとその仲間のため、佐藤紅緑はときどきコーチ役を買って出た。バットを手にノックもする。だが、さして上手いわけではないので、「サード」と声をかけながら打球はファーストやセカンドの方へ飛ぶ。

ハチローが思わず「おとうさん、駄目だ」となじると、父親が反撃に口にしたのが掲出のことば。つづけて、こんなふうに言った。

「俺は、実戦にそなえてシートノックをしてるのだ」

父子交流の、微笑ましくもユーモラスな一場面であろう。息子のハチローはこれを忘れることなく胸の奥に刻み、自伝的エッセイ『落第坊主』の中にも書き込んだ。

一方で佐藤紅緑は、知らぬ間に、野球のトレーニングのあり方の本質を突いていた。読売巨人軍のV9時代、川上哲治監督のもと名参謀として働いた牧野茂の逸話を思い出す。

V9を達成しユニフォームを脱いで評論家となった牧野が、あるとき、ヤクルトスワローズの春季キャンプを訪れた。目の前で行なわれているのは、ランナー2塁で1・2塁間を抜けるヒットを打たれた場合を想定しての守備練習。右翼手からのバックホームと連携して、カットプレー、バックアップの動きが課題となる。

何か気がついたことがあったら言ってください、と監督の武上四郎に乞われ、牧野はこうアドバイスした。

「これじゃあ意味がない。練習のための練習になってる。選手がみな頭からヒットと決めてかかって、間を抜けていく打球を追おうともせず、カットの位置ばかり気にしている。実戦ではまず打球を追うはずだよ。打球を追って、抜かれてしまったあとに中継プレーに入る。そういう実戦的な練習をしないと、本番では役に立たない」

ひと口に実戦的トレーニングといっても、奥は深い。このことはスポーツのみならず、さまざまな仕事や趣味の場にも通ずるものだろう。

野球の世界王座を競うWBCが、いよいよ始まった。侍ジャパンは今日、強豪キューバとの第1戦に挑む。大谷翔平の欠場は残念だが、日の丸を背負う他の選手たちの活躍に期待したい。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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