文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「ああ寒いほど独りぼっちだ!」
--井伏鱒二

作家の井伏鱒二が小説『山椒魚』の中で、山椒魚にいわせた台詞である。山椒魚は岩屋から出られなくなってしまい、非常な悲しみに襲われる。

「ああ神様! あなたはなさけないことをなさいます。たった二年間ほど私がうっかりしていたのに、その罰として、一生涯この窖(あなぐら)に私を閉じこめてしまうとは横暴であります。私は今にも気が狂いそうです」

そう嘆き悲しみ、すすり泣くのである。

しかし、そんな悲しみが滑稽感さえ伴って映し出されるのは、作者の視線ゆえであろう。それは、自己の悲しみや絶望をも客観視する、静かだが強靱な意識に裏打ちされているのだろう。

夏目漱石が小説『野分』の中に書いたことばを思い起こす。

「君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。一人ぼっちは崇高なものです」

井伏鱒二自身、漱石を尊敬していた。岩波書店発行の昭和40年版『漱石全集』の月報に『五十何年前のこと』と題する随筆を掲載し、「私は漱石の作品に魅力を感じていた。今でもそう思うが漱石は見上げるような大作家であると思っていた」とも綴っている。

井伏は明治31年(1898)、広島の生まれ。はじめて漱石を読んだのは、中学時代の春休み。大阪朝日新聞に連載中の『彼岸過迄』か『門』かであったという。上記の随筆には、井伏と漱石との縁を感じさせる、こんな逸話も紹介されている。

大正6年(1917)に上京した井伏は、はじめ雑司ヶ谷に下宿した。そのため、雑司ヶ谷墓地を自身の散歩コースに入れていた。周辺に同郷の友人や先輩がいたこともあり、墓地のあたりを毎日のように歩いていた。

ある日、井伏が西側の出入口から墓地に入っていくと、大きな銀杏の木のそばにあった漱石の墓標のところが掘り返されていた。何事かと思って見回すと、20人余りの人が一団になっていて、その傍らにさらに40人余りの人が厳粛な様子で立っている。この日は漱石の一周忌で、漱石の墓が改葬される日だったのである。

20人余りの一団の中に、井伏はすぐに、久米正雄や芥川龍之介の顔を認めた。他に、森田草平や野上豊一郎、安倍能成、小宮豊隆らの姿もあるようだった。それと少し離れて立つ一群は、漱石の愛読者や女子大学生といった者たちだった。

こうして、それまで菅虎雄の筆で「夏目金之助墓」と記した九寸角の白木の墓標の下に埋まっていた漱石の遺骨が、立派な墓石の下に移されたのだった。

井伏はこの頃、早稲田の学生で、雑司ヶ谷から大学へ通う途中、目白の女子大学附属小学校へ通う二人連れの女子小学生をよく見かけた。この姉妹は漱石の遺児であるという話を伝え聞き、井伏は漱石に敬意を払う気持ちから、その姉妹が向こうからやってくると道をあけるようにしていたという。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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