今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「死んでから、お前と別々になるのは不便だからな」
--大原總一郎
大原總一郎は、明治42年(1909)生まれ。父親の大原孫三郎は、倉敷絹織、倉敷紡績の社長をつとめ、大原美術館、倉敷中央病院、大原社会問題研究所などを創設した関西実業界の大物であった。
経済学者の大内兵衛のこんなことばが残っている。
「金を儲けることにおいては大原孫三郎より偉大なる財界人はたくさんいた。しかし、金を散ずることにおいて高く自己の目標を掲げてそれに成功した人物として、日本の財界人としてこれくらい成功した人はいなかった」
美術館や研究所などが、その志高い「散財」の対象だというのであった。
大原總一郎は、29歳の若さで、父・孫三郎からこれらの事業を受け継いだ。しかし、単なる継承者ではなかった。実業家として、日本独自の研究開発である新しい合成繊維のビニロンの工業化を実現した。一方で美術館には、ピカソ、ルオー、ミロ、ブラックなどの現代美術の秀逸のコレクションを加えた。のちに日本を代表する版画家となる棟方志功を逸早く見いだし、育て上げたのも大原總一郎だった。
高い識見を持って企業の責任や文化貢献の必要性を語り、それを世界的な視野で実践したという意味で、大原總一郎には父に優るとも劣らぬスケールの大きさがあった。
また、生まれ故郷である倉敷を愛し、「倉敷を日本のローテンブルクにしよう」と提唱し、美しい街並みづくりにも貢献した。南ドイツの古都ローテンブルクの美しさは、世界各地を回った總一郎の目にも、とくに印象強く残っていたのである。
そんな大物の生涯は、さして長くはなかった。
昭和43年(1968)、58歳での病没。亡くなる10日前、大原總一郎は入院先の病室でカトリックの洗礼を受けた。カトリックの信者である夫人の勧めによるもので、その際に呟くように言ったのが掲出の台詞であったという。
告別式は、愛した倉敷の大原美術館の中庭でとりおこなわれた。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。