談/高橋昌嗣(写真家)
僕が軍艦島を訪れたのは、閉山の2年前、昭和47年(1972)のことだった。当時25歳だったが、アルバイトで貯めたお金を使って全国を放浪していた。
あるとき、友人2人と長崎に家を借りて住もうという旅を計画して、長崎市日の出町で生活を始めた。しばらくして皆と離れ、単独で福岡県北九州市小倉の知人を訪ね、半月ほどして長崎に戻ったときのこと。玄関に「端島に行くからお前も来い」という貼り紙を見つけたのだ。
皆、持ってきたお金が尽きたころ、炭鉱作業員を募集するという告知をみつけたのだ。渡りに船と、アルバイト感覚で申し込んだ。“端島”が“軍艦島”のことだと、後から近所の人から聞いたのだから、呑気なものだ。
港から船夜8時位の便に乗り、島に着いたときは夜の21時を回っていた。真っ暗闇で、不安がよぎった。
生活場所として宛がわれたのが“30号棟”。軍艦島に残る最古の建築で、現存する日本最古の鉄筋コンクリート造のアパートの1階の一室だった。
部屋に入ると、いきなり鼻をつくような臭いがした。壁は落書きだらけだったし、布団は薄っぺらで、綿が4隅に寄っていた。とんでもない場所に来てしまったと不安な気持ちになって、布団に潜った。
翌日から坑木を運ぶ作業に従事することになった。自分より小柄のおばさんがひょいと担いでいるのを見たので、こんなのちょろいと思った。ところが、勢いよく持ち上げた瞬間、あまりの重さにひっくりかえってしまった。あれには参った。
最初の坑木かつぎこそ苦戦したものの、慣れてくると島での生活は快適そのもの。何しろ、食料や生活用品はすべて島内で揃う。共同浴場に無料で入れるのもありがたかった。
ちなみに給料は、具体的な金額は忘れてしまったが、普通のサラリーマンの2倍くらいは稼げたと思う。僕は島に3ヶ月滞在したけれど、その後、九州を1ヶ月かけて一周したのだ。そんな旅ができるくらいは余裕で稼げたということだ。正社員であればもっと多くもらえたはず。
休みの日は島内をカメラ片手に散策しながら、写真を撮影して回った。もちろん、それが後々、貴重な写真になるなんて考えもしなかったが。
苦労したことといえば、トロッコのレールにしこたまぶつけて膝を負傷してしまい、通院したときのこと。30号棟と端島病院は島の端と端。島内は平坦な道がほとんどなくて、階段と斜面の連続だった。松葉杖を使って通院しが、本当に辛かった。
僕が軍艦島を離れて1年後、突如、島が閉山するというニュースが飛び込んできた。いてもたってもいられなくなり、再び島を訪問した。当時知り合った人々があたたかく迎えてくれたことが、何よりも嬉しかった。
昭和49年(1974)、軍艦島は歴史に幕を降ろし、無人島になった。その後、僕は軍艦島をテーマにした写真を雑誌に発表し、評判になった。このとき、僕は写真家として生きていく決意を固めた。軍艦島の生活がなかったら、写真家としての今の僕は無いと思っている。
写真・談/高橋昌嗣
1967年桑沢デザイン研究所 グラフィックデザイン科卒業後、フリーカメラマンとなる。主な作品は、ニューヨークMOMA に収蔵された写真集「UTSUSHIE」(1990年スタジオマックス刊)。文藝春秋の6年間連載の「文士の逸品」(2001年文春ネスコ刊)。若き日の旅の果てにたどりついた軍艦島のドキュメント写真集「軍艦島 夢幻泡影 1972-2014」(2014年大和書房刊)がある。現在、1980年の小学館刊「写楽」の仕事を皮切りにサライのグラビア、書籍の表紙、などエディトリアルを中心に従事する。
文・取材/山内貴範
昭和60年(1985)、秋田県羽後町出身のライター。「サライ」では旅行、建築、鉄道、仏像などの取材を担当。切手、古銭、機械式腕時計などの収集家でもある。
※ 高橋昌嗣さんの撮影した軍艦島の写真の一部は、『軍艦島デジタルミュージアム』、