文・写真/佐竹敦
文永11(1274)年10月、北九州に中国の元の大水軍が襲来した。いわゆる「元寇」(文永の役)である。
一時は元軍に上陸を許したものの、からくも追い払った鎌倉幕府は、再度の襲来に備え、九州の御家人に命じて上陸を防ぐための石造りの防塁を築かせた。これを「元寇防塁」(げんこうぼうるい)と称する。
1276年3月から約半年間で築かれた防塁は、博多湾の海岸線約20キロ(西の今津から東の香椎まで)続く長大なものとなった。そして九州各国の御家人は、それぞれの分担地区の警備を受け持った。
続く弘安4(1281)年5月の「弘安の役」では、この元寇防塁が日本軍の重要な防衛拠点となった。元軍はこの元寇防塁に阻まれ、文永の役の時と違って博多に上陸することができなかった。
この「約2か月にわたり、元軍に上陸を許さなかった」ことが、いわゆる神風と呼ばれる暴風雨による元軍の壊滅をもたらした。つまり元寇防塁こそが、弘安の役における勝敗の最大の決め手の一つとなったといえる。
現在では海岸線の位置は元寇当時とは変わっており、元寇防塁もそのほとんどが砂の中に埋まってしまっているが、一部は発掘調査が行われて復元公開されている。そのいくつかを紹介しよう。
■1:生の松原元寇防塁(国指定史跡)
生の松原地区の元寇防塁は肥後国が担当して築造警備をした。『蒙古襲来絵詞』に描かれた菊池武房主従が陣取る防塁の前を、竹崎季長一行が馬上で進むあのあまりにも有名な場面は、この生の松原の情景である。
防塁の一部は築造時の高さに復元され、見学できるようになっている。
■2:今津地区の元寇防塁(国指定史跡)
今津地区の元寇防塁は大隅国・日向国が担当し、西の柑子岳山麓から東の毘沙門山山麓までの海岸砂丘上に約3キロ築かれた。現在では松原の中に約200mの防塁が復元整備されて公開されている。
■3:百道地区の元寇防塁(国指定史跡)
文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し侵入。祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。このため防塁は強固なものであったと考えられるが担当国は不明である。
現在では防塁の一部が帯状に露出していて、見学できるようになっている。
■4:西新地区の元寇防塁(国指定史跡)
百道・西新の元寇防塁は、約20キロにわたる元寇防塁のちょうど中間地点にあたる。 文永の役(1274年)ではこの辺りが最激戦地となったため、防塁は強固なものであったと考えられる。
その構造は他地区とは異っているが担当国は不明である。
現在では防塁の一部が露出展示されている。周辺は埋め立てが進んでいて海岸線ははるか先となっている。
■5:西南学院大学内元寇防塁
西南学院大学内にある元寇防塁は、同校の第1号館の新築にあたって検出された遺構である。保存状態は良くなかったが、石塁の南側に約1mの間隔をおいて幅1.5m、高さ 1.3mほどの粘土と砂を交互に積み重ねた『土塁』が検出された。
元寇防塁の遺構で土塁が発見されたのはこれが初めてであり、この発見により、この付近の元寇防塁は石塁と土塁の二列構造になっていたという事実が明らかとなった。
■6:博多小学校石塁遺構
博多小学校石塁遺構は、平成10年から約1年をかけて行われた発掘調査の際に出土した石塁(石垣)を、学校校舎の地下に展示しているものである。
石の積み方や規模が、西区の今津や西新に残っている元寇防塁に良く似ていることや、博多小学校の位置が旧地形を復元すると海岸部の砂丘に当たることなどから、博多に築かれた元寇防塁ではないかと推測されているという。
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以上、今回は訪ねて行きたい「元寇防塁」(げんこうぼうるい)についてご紹介した。蒙古軍の侵略を必死に打ち払った御家人たちの奮闘に思いを馳せつつ、ぜひ現地を訪ねていただきたい。
【元寇防塁の所在地まとめ地図】
文/佐竹敦
日本全国の即身仏・一之宮・五重塔・三重塔・滝百選・棚田百選・国分寺跡をすべて訪ね歩いた一人旅の達人。テレビチャンピオン滝通選手権出場。主な著書に「この滝がすごい!」「日本の滝めぐり」等。テレビ東京の「厳選!いい宿ナビ」のコラム執筆、@nifty温泉の記事執筆等、ライターとしても各メディアで活躍中。ホームページ「歴史と旅」http://www5f.biglobe.ne.jp/~