取材・文/田中昭三
いま京都では第51回「京の冬の旅」キャンペーンが実施されている。今回のテーマは「大政奉還150年記念」。江戸時代末期の慶応3年(1867)、徳川15代将軍慶喜は政権を朝廷に返上。ここに日本の近代化が始まった。
それを記念して幕末ゆかりの寺院を中心に14か所で、日頃は非公開の文化財が特別公開されている。
そのなかで今回紹介するのは、幕末の志士たちも遊んだ、島原の角屋。江戸時代の粋なもてなし文化を伝える貴重な揚屋(あげや)である。江戸文化や建築に興味のある人には必見である。
島原は、江戸時代以来公的に許された花街として発展した。花街は歌舞音曲を伴う遊宴の町であり、江戸吉原に代表される遊郭とは性格が異なる。
花街には「揚屋」と「置屋(おきや)」があった。揚屋に太夫(たゆう)や芸妓を派遣するのが置屋である。揚屋はかつて江戸の吉原や大阪の新町にもあったが、吉原は宝暦7年(1757)の大火で焼失。大阪は昭和20年の空襲で消滅してしまった。
ちなみに「揚屋」とは、大規模な宴会場のことをいう。江戸時代中ごろまでは間口が狭く奥行きのある小規模な建物で営業されていた。1階に台所と居住部分、2階にメインとなる座敷があり、そこで客を2階へ揚げるところから「揚屋」と呼ばれるようになった。それが次第に店の規模が大きくなり、1階にも大広間を設けるようになった。
角屋は、島原を代表する揚屋である。現在は営業していないが、大規模な建物は花街文化をいまに伝える貴重な建造物である。
入口を一歩潜ると江戸時代の雰囲気が一気に広がる。中戸口に掛かる角屋の家紋・三ツ蔓蔦(みつつるつた)を白く染め抜いた暖簾(のれん)が印象的である。2本の古木は槐(えんじゅ)の木。原産地中国では古来不老長生や幸福招来の銘木として尊ばれてきた。淡い茶褐色の聚楽壁(じゅらくかべ)が揚屋の風格を一層高めている。
1階にある表座敷は「網代(あじろ)の間」という。広さは28畳もある。天井板が網代組なのでその名がつけられた。天井を支える竿縁(さおぶち)には、京都の銘木北山杉が皮つきのまま使われている。正面の床の間は幅2間(けん)。床柱は太い皮つき丸太。細部へのこだわりより、室内の雰囲気を見事に演出している。
こうした材料やデザインを見れば、角屋の主人がいかに粋人であったかが分かる。しかもここで遊ぶ客たちは、詩歌や俳句、歌舞音曲に通じた教養人が多く、安普請では彼らの目を楽しませることができない。
1階にはもう一部屋、「松の間」という大広間がある。襖や衝立の絵が素晴らしく、目近に拝観できるのがありがたい。衝立の「布袋の図」は、どの方角からも正面に見える不思議な絵である。
松の間の名称は、庭にある大きな臥龍松(がりょうしょう)に由来する。その松は、雲海を思わせる白砂の庭にうねるように伸びている。寛政11年(1799)に刊行された『都林泉名勝図会』には「角屋雪興(ゆきのうたげ)」の表題で、雪をかぶった臥龍松が紹介されている。口うるさい京童も感嘆した名松なのである。
島原という地名はいつ生まれたのだろうか。寛永18年(1641)、それまで六条三筋にあった花街がいまの地に移された。当時は辺鄙な一帯で西新屋敷と名付けられた。しかしそのときの移転騒動が、4年前の寛永14年(1637)に勃発した島原の乱を連想させたことから、島原と呼ばれるようになった。
島原にはいまも大門や見返り柳がそのまま残されている。太夫町、揚屋町(あげやちょう)などの町名はいまなお生きている。新選組の近藤勇や沖田総司(そうじ)らは、ときにこの界隈に足を運び、角屋に揚がり談論風発の日々を送ったのである。
【島原角屋】
■住所:京都市下京区西新屋敷揚屋町32
■公開日:2017年1月7日(土)~3月14日(火)。3月15日(水)からは「角屋もてなしの文化美術館」として通常公開。
■時間:10時~16時(受付終了)
■料金:大人600円(個人は予約不要)
■問合せ先:京都市観光協会 電話075・213・1717
※ 第51回 京の冬の旅キャンペーン公式サイト
https://kyokanko.or.jp/huyu2016/
取材・文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。