『文武二道万石通』と幕府の弾圧
天明8年(1788)、朋誠堂喜三二は『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくとおし) 』(出版者は蔦屋重三郎)という作品を発表しました。この作品は、源頼朝が畠山重忠に命じて諸大名を文武二道に分けるという話。寛政の改革の文武奨励策など実相をとらえ、風刺したもので、当時の読者の間で大きな話題となりました。しかし、同時に幕府の目にもとまり、弾圧の対象となったのです。

その結果、喜三二は藩主から戯作活動の停止を命じられ、以降は黄表紙の執筆を断念せざるを得ませんでした。この一件は、松平定信による「寛政の改革」の厳しい言論統制の一例としても知られています。
晩年と狂歌師としての活動
戯作を禁じられた後も、朋誠堂喜三二は文芸活動を続けました。狂歌や狂文の分野で活躍し、「手柄岡持」という名で多くの作品を発表しました。彼の洒落や風刺のセンスは狂歌の世界でも高く評価され、文化10年(1813年)に79歳で亡くなるまで、文芸に関わり続けました。
彼の没後、狂文集『岡持家集 我おもしろ』(1814)が刊行されました。この作品は、彼のユーモアと風刺精神を存分に伝えるものとして、今もなお評価されています。

まとめ
朋誠堂喜三二は、黄表紙作家として一時代を築いた文人でした。彼の作品は知的で洒脱な風刺を特色とし、恋川春町とともに江戸中期の風刺文学を代表する存在でした。
しかし、『文武二道万石通』による幕府の弾圧を受け、黄表紙作家としての活動は突然終わりを迎えました。それでも、喜三二は狂歌や狂文の世界で才能を発揮し続け、文芸界に足跡を残しています。
江戸の町人文化が最も華やかだった時代に、鋭い風刺と機知に富んだ作品を生み出した朋誠堂喜三二。その功績は、今なお江戸文学の歴史の中で光を放ち続けています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
