はじめに-朋誠堂喜三二とはどのような人物だったのか
朋誠堂喜三二(ほうせいどう・きさんじ)は、江戸後期に活躍した戯作者であり、黄表紙(現代でいう風刺漫画やパロディ文学に近いジャンル)の名手として知られています。恋川春町(こいかわ・はるまち)とともに、安永・天明期(1772~1789年)の黄表紙文化を支えた代表的な作家でした。
また、狂歌や俳諧の分野にも精通し、手柄岡持(てがらのおかもち)という狂名を用いて作品を発表するなど、多才な文筆家としても知られています。しかし、彼の筆は時に政権批判を含み、晩年には幕府の弾圧を受けて戯作活動を禁じられることになりました。
そんな朋誠堂喜三二ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、「宝暦の色男」の異名を持ち、蔦重の最高で最大の協力者となる戯作者(演:尾美としのり)として描かれます。

目次
はじめに-朋誠堂喜三二とはどのような人物だったのか
朋誠堂喜三二が生きた時代
朋誠堂喜三二の生涯と主な出来事
まとめ
朋誠堂喜三二が生きた時代
朋誠堂喜三二が生まれた18世紀中頃から19世紀初頭にかけての江戸時代は、町人文化が成熟し、黄表紙や洒落本(しゃれぼん)、狂歌などの風刺的な文芸が隆盛を極めた時期でした。
こうした時代背景のもと、喜三二の作品は知的で洒脱な語り口を持ちながらも、社会風刺の要素を多く含んでいました。そのため、彼の作品は当時の読者に広く支持されましたが、一方で幕府から警戒される存在ともなったのです。
朋誠堂喜三二の生涯と主な出来事
朋誠堂喜三二は享保20年(1735)に生まれ、文化10年(1813)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
秋田藩士としての人生
朋誠堂喜三二は、享保20年(1735)に生まれました。本名は平沢常富(つねまさ)、通称は平格(へいかく)です。喜三二は江戸の秋田藩邸に仕える武士でしたが、若いころから文芸に興味を持ち、俳諧や漢学を学びました。
喜三二は秋田藩の江戸詰めの武士として、近習(きんじゅう)役から留守居役へと昇進しました。留守居役とは、江戸において藩の外交や政務を担当する重要な役職です。この役職を務めるうちに、遊里や芝居など江戸の社交文化にも精通するようになりました。
黄表紙作家としての活躍
戯作の世界に足を踏み入れた喜三二は、安永6年(1777)に『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』を発表し、文壇デビューしました。その後、親友の恋川春町と並んで黄表紙の人気作家となり、知的で洒脱な風俗描写と言葉遊びに満ちた作品を次々と発表していきました。
代表作として以下の作品が挙げられます。
『当世風俗通(とうせいふうぞくつう)』(1773年)
若者向けの傾城買いの指南書。作者の金錦佐恵流は、朋誠堂喜三二の別名であるとする説が有力です。
『見徳一炊夢(みるがとくいっすいのゆめ)』(1781年)
恋川春町の「金々先生栄花夢」にならった作品。江戸浅草の大店の息子・清太郎が、夢の中で邯鄲の枕を借りて50年の栄華の夢を見、破産した所で二重の夢から覚めるという話。出版者は、蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)です。

このほか、恋川春町が絵を描いた『桃太郎後日噺(ももたろうごじつばなし)』(1777年)、『長生見度記(ながいきみたいき)』(1783年)などが挙げられます。

【『文武二道万石通』と幕府の弾圧。次ページに続きます】
