文/鈴木拓也
江戸時代に、版元(出版人)として大活躍した蔦屋重三郎。
今年の大河ドラマの主人公となったことで、はじめて知ったという方も多いかもしれない。
今回はドラマの予習を兼ね、新書『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP研究所 https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85740-4)をもとに、その実像の一端を紹介しよう。
最初は吉原ゆかりの出版物を刊行
重三郎が産声を上げたのは、寛延3年(1750)1月7日。場所は、幕府公認の遊郭街たる吉原であった。本名は柯理(からまる)といい、重三郎は後につけた通称である。
7歳のときに両親が離別したのを機に、商家の蔦屋に養子入りする。蔦屋は、おそらく吉原の茶屋であろうとされている。長じて、重三郎が独立したのは23歳の時。義兄の援助のもと、吉原の入り口に耕書堂という名の書店を開業する。当初は、版元の鱗形屋が年に2回刊行した『吉原細見』という、吉原遊廓の情報誌を販売した。
開業ほどなく出版業に参入。最初に出したのは、『一目千本』という名の遊女評判記であった。これは店頭で小売りするものではなく、遊女屋などの注文を請けて製作し、遊客への贈答用として活用された。後に重三郎版の『吉原細見』も刊行。競合よりも内容も充実している上に安価なことから評判を呼んだ。重三郎は、ほかのジャンルの刊行物も出版し、版元として注目の存在となり始める。
人気の作家や絵師を抱えてヒット作続々
天明3年(1783)、経営基盤を固めた重三郎は、日本橋の店舗と蔵を買い取って新たな拠点とした。当時の日本橋は、江戸の経済・文化の中心地。事業をさらに拡大せんとする、重三郎の野心が見え隠れする。
時期は少し遡るが、重三郎は、当時大流行していた黄表紙という絵入り短編小説の出版に参入。人気作家の朋誠堂喜三二や恋川春町を抱えて作品を続々と生み出し、売り上げを大いに伸ばした。これが日本橋での雄飛のきっかけになったはずである。
重三郎は、何が売れ筋かを見極め、勝負に出る商才が抜きん出ていた。だが、成功の秘密はその人間性にもあった点を、著者で歴史家の安藤優一郎さんは指摘する。
この二人の関係だが、執筆依頼を次々と引き受けたことが示すように、喜三二は十五歳年下の重三郎を大変気に入っていたようだ。才知に長け、度量が大きく、人には信義をもって接するという人間性を評価したのである。(本書84pより)
その人望の厚さが、さらに多くの書き手、挿絵画家、浮世絵師を引きつけた。山東京伝、太田南畝、喜多川歌麿、東洲斎写楽など、重三郎のもとで飛躍を遂げた文化人は、まさに多士済々であった。
重三郎が活躍できる土壌を育んだ田沼時代
本書は、単に重三郎の評伝にとどまらない。同時代の政界を牽引した田沼意次にもフォーカスしている点で興味深い。
徳川吉宗の治世下、次期将軍・家重の小姓としてキャリアをスタートした意次は、家重の将軍就任後、小姓頭取に昇進。その後も順調に出世し、御側御用取次に取り立てられる。病弱な家重は、宝暦10年(1760)に将軍の座を家治に譲るが、意次は引き続き御側御用取次を務める。将軍の代替わりがあると、側近団も本丸御殿を離れるのが慣例であったため、これは異例のことであった。それだけ将軍家からの信任が厚かったのである。意次は、ついには側用人と老中を兼務し、政治の全権を握る立場まで上り詰める。
実務面では、悪化していた財政の立て直しに力を入れた。例えば、運上・冥加金や御用金を導入し、さらには蝦夷地の開拓とロシアとの貿易を構想するなど先進的な取り組みを行った。
社会に対して規制は緩く、世の中は自由闊達な雰囲気に包まれていた。このことが重三郎をして、「出版人としての能力を存分に発揮」できる土壌となった。
政治の圧力にも屈せず挑戦を続けるが……
意次の権勢は、終世は続かなかった。
当時は、天災が相次いで飢饉や米価高騰をもたらし、民衆の不満は高まっていた。幕府も、さまざまな施策を打ったが、なかなか思うようにいかず、政治不信に拍車がかかった。非難の矛先は、自然と意次へ向かう。幕府内でも、「成り上がり者」への嫉妬・反感があり、引きずり落とすチャンスをうかがっていたようだ。
そんなおり、家治が病死する。後ろ盾を失った意次は、あれよという間に転落し始める。辞職勧告の圧力に屈して御役御免となり、謹慎処分と資産の没収が追い打ちをかける。それからほどなく意次は、失意のうちに70年の人生の幕を閉じる。
その後、幕政のトップに立った松平定信は、意次を悪しき見本として政治改革を断行。それは市井の生活も対象となり、質素倹約の励行として現れる。これは田沼時代が、「華やかで享楽的な時代であったため、風俗が華美となり、生活も贅沢なものになったという見立て」への反動である。そして、旗本や御家人らに対しては、まじめに文武に励むよう通達が出る。
重三郎は、これもビジネスチャンスに活かした。新たな改革を風刺する黄表紙を、立て続けに刊行したのである。これは読みどおり、世間に好評をもって迎えられた。
しかし幕府は、これを看過するはずはなかった。出版物の検閲はいっそう厳格となり、本業は藩士であった作家たちは次々と筆を折った。
重三郎は、この状況に挑戦した。発禁される可能性の高い洒落本(遊里を舞台にした小説)3冊を、製本業者を商う行事(検閲者)に持ち込み、検閲を通過させた。山東京伝の書いたこの本は大ヒットしたが、お上の知るところとなった。重三郎や行事らは、罰金刑などの処罰を受ける。
追い打ちを駆けるように、重三郎の身を病魔が蝕み始める。長い闘病生活の末、寛政9(1797)年5月6日、死出の旅に出る。享年48。以降も蔦屋重三郎の名は襲名され、事業は何代か続くが、「初代ほどの事績は知られていない」と、安藤さんは記している。
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本書において安藤さんは、重三郎と意次は、血筋ではなく自らの才覚によってのし上がった「成り上がり者」という共通点を見出し、これまでにない視点で当時の文化・政治事情を活写する。大河ドラマファン、歴史ファンともに、読みごたえある1冊としておすすめしたい。
【今日の教養を高める1冊】
『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。