野村深山(檜三味線製作、演奏者・78歳)

─比類ない存在感を放つ“檜三味線”をつくり演奏─

「日本の木の音色に信念を持って2000挺の檜三味線を送り出しました」

檜三味線の創始者・深山さんの自宅前は国道をはさんですぐ日本海が果てしない。越前加賀海岸国定公園指定の一角だ。夕景が迫る頃、岩場に下りて愛用の檜三味線を奏でる。

──家の前がすぐ日本海なのですね。

「初夏から晩秋にかけては波が穏やかなんですが、冬は波の花が舞って、わが家の2階まで飛沫がかかるほどですよ。この越前の海辺に越してきたのは、還暦を迎えたときだから、18年前になるのかな。それまでは埼玉県の上尾市を拠点に演奏活動をしていたんですが、娘の家族が福井市内にいたものですから、家内の裕子が“孫たちの傍にいたいね”って言いましてね。ここは福井駅からバスで50分ほどですが、もうひと目見て気に入って越してきたんです。沖を行く船を朱に染めて沈む夕陽を眺めていると、地球を間近に感じて癒されますし、遠く漁火が横一線に並ぶのを見るのは本当に幽玄そのものですよ」

──特殊な“檜三味線”の演奏者です。

「日本の伝統的な三味線は、硬い板材4枚で枠を組んで、その胴部の裏と表に猫もしくは犬の皮を張ることで、弾いた弦の音を共鳴させる。そういう仕組みの和楽器ですが、私は猫や犬の皮は使わない。すべて木づくりの胴に3本の弦を張った仕様です。

あくまで日本の木の音色に信念を持って、国産のヒノキのほかケヤキ・イチイ・スギ・ツバキ・ブナなど様々な材料で三味線を手づくりしてきた。それぞれ音の響きや味わいが違って、弾きこなすのが楽しいんです」

──全国で演奏活動を続けてきました。

「それこそ最初は“投げ銭・放り銭”の世界から始めて、北海道から沖縄は西表島まで、行ってないところはないくらい、あちこち歩いて演奏をしてきました。海外も呼んでくださる人がいらして、タイを始めとする東南アジアの国々からヨーロッパ諸国へも出かけて演奏会を随分してきたんですよ」

──檜三味線に魅せられたきっかけは。

「私らの若い頃は猛烈社員がすごくもてはやされた時代で、そこから日本はバブル景気に向かってゆくでしょう。じつは私も40過ぎまでは猛烈社員だったんです。高校を出てから、いくつかの仕事を経て、店舗などの内装を請け負う会社に営業マンの才能を見込まれて引き抜かれたんですが、ひとつの店だけで3億円の仕事をとってきたりね。私が稼ぎ頭で、会社は儲って仕様がない。気がついたら社長になってました(笑)。

でも、こんな人生でいいのかと思い始めたのは、早過ぎる父の死から。やっぱり仕事のことしか考えてないような生きざまの人でしたが、癌であっという間に死んでしまった。そのとき私は42歳、とてもショックを受けましてね。道楽も何もない、せめて趣味のひとつも持たなきゃ損だなと思ったんです」

──それが檜三味線に行きついたのですね。

「最初は友達が持っていた尺八に挑戦してみたんです、40過ぎのオジサンっぽい趣味として格好いいんじゃないかと思って。でも、尺八は身体によくない、一所懸命やると眩暈がしちゃって(笑)。そこでひらめいたのが三味線。とりあえず弾けば音は出るなと思って、女房に買ってくれと頼んだら“今年は長女が大学進学、長男は高校進学だから無理。来年なら買ってあげる”って。だったら、自分でつくってみようかなと思ったんですよ」

「最初から“皮”を張る気はなく木だけで三味線をつくり続けてきた」

──三味線を手づくりしたのですか。

「材料は、木でできた素麺の空き箱です。社長をやっていたから贈答の季節ごとによくもらっていた。その箱に釣り糸を張って弾いてみたら、まあ、可愛い音が出るんですよ、ポロロンってね。それが記念すべき“箱三味線”の第1号です。早速、三味線教室を電話帳で調べて、弾き方を教わりに行くと、先生に“こんなもの三味線じゃない、お前、なめてるのか!”って怒られちゃいました」

──そこから改良を重ねたわけですか。

「最初から皮は張る気がなかった、猫が嫌な顔をすると思ってさ。代わりに、いろいろな和紙を張ってみたりしたけど全然ダメでしたね。結局、素麺の箱三味線に倣って、厚み3㎜の板を張るようにしたら、音の響きが俄然いい。撥(ばち)も板で手づくりして、自己流でぺんぺん弾いて楽しむうちに、趣味の域を超えて夢中になって、家族に宣言したんです。“これからは三味線一本で、お前たちを食わせる、会社はもうやめる!”と」

初めて手づくりした素麺の木箱を使った三味線(下)。ここから工夫改良を続け猫や犬の皮は使わず、音色も素晴らしい独自の檜三味線(上)を完成させた。

──決意のきっかけ、転機があったのですか。

「津軽三味線の全国大会が青森県弘前市で開催されるという新聞記事を読んで、出かけてみたんです。山田流津軽三味線の家元で、全国大会の発案者でもあった山田千里さんのライブハウス『山唄』を訪ね、大会に参加させてくださいと直訴しましてね。

津軽三味線のことはよくわかっていなかったけど、それらしくダンダンダンダンって弾いてやろうと。当日は小柳ルミ子さんの『お久しぶりね』って曲を弾いたら、審査委員長の弘前大学名誉教授が“斬新な津軽三味線だ”と高く評価してくれて、審査委員長特別賞をいただいた。この受賞でプロの演奏者として生きていく覚悟が決まったんです」

──公演依頼が次々ときたのですか。

「そういう状況ではまったくなくて、当面はひとりで各地を流れ歩いて、道端で木三味線を弾いてみせる投げ銭・放り銭の世界です。

それでも、名古屋の大須商店街の地べたに坐って弾いていたら、名刺をくれた人がいましてね。見たら『電話が欲しい』とメモ書きがあった。名刺の主は名古屋の芸能プロダクションの社長さんで、連絡すると“豊橋市で河内音頭の本家との共演を頼めないか”という願ってもない話で、出演料は15万円だというんです。えーッ、そんなにもらえるのかと思ってビックリしちゃいました(笑)」

──それがプロとしての初仕事ですね。

「おまけに、その芸能プロの社長さんが“東京の仕事は、友達がいるので連絡しておいてあげる”と言ってくれて。そのつながりから始まったのが、落語芸術協会の旅公演に噺家さんと一緒に出かけて、高座で三味線の演奏を披露するという仕事でした。当時、落語芸術協会の会長は桂米丸さん、副会長が三笑亭笑三さん。その笑三師匠から直に仕事をいただくようになって、春風亭昇太さんともご一緒して大喜利をやったこともありました。

NHKテレビの『にんげんマップ』という番組から声がかかったのは、平成8年だったのかな。私と女房の裕子が夫婦で日本各地を檜三味線を弾いて歩く姿を、直木賞作家のねじめ正一さんが追いかける形のドキュメンタリーを撮りたいといわれたんですよね」

──奥さんが相方になっていたんですか。

「私が木づくり三味線の演奏家として生きてゆくと宣言してからは、女房も覚悟を決めたんです。夫婦で猛練習の末、全国各地を歩いて、より楽しく演奏を披露するまでになっていた。新聞・雑誌にも風変わりな木の三味線の奏者ということでね、紹介される機会も増えていたんですけど、NHKの『にんげんマップ』(平成8年10月7日放送「木造り三味線は心の響き」三味線アーチスト・野村深山)は、全国放送でしたから。反響がものすごかった。いろいろなところから仕事の声がかかって猛烈に忙しくなりました」

──海外公演も多かったのですね。

「平成14年頃だったと思うけど、初めてタイ公演に行ったら、向こうの日本人会の方から“バンコクには日本人が沢山いるので、三味線づくりを教わりたい”という話をいただいて。ふたつ返事で、引き受けたんですよ。そのときは、バンコク市内にマンションを借りて、日本から必要な材料をぜんぶカットして送って、そこを工房代わりに三味線づくりを教えたんです。出来上がったところで、弾き方も指導し、一緒に演奏会を行ないました。

バンコクの日本人会の方って、みなさん成功者で、お金持ちばかり。運転手つきの車でお稽古に来るんですから(笑)。しかも、日本人会というのは世界中にあるんですね。その関係から、ベトナムやシンガポールなどのアジア諸国、イタリアやフランス、オーストリアなどのヨーロッパ諸国での旅公演へと次々とつながった。海外は20か国くらいですが、同じところに何度も呼ばれて行ってます。日本人会の方のおかげなんですよね」

平成14年頃、タイの首都バンコクの日本人会の招きで長く滞在。写真はバンコク大学の学生と。彼女たちにも檜三味線の製作と演奏を指導。共にコンサートも行なった。

「福祉施設と中学生への指導、そして自分の演奏を続けてゆく」

──三味線の銘木はどこで探すのですか。

「わざわざ買い求めたことはなく、たとえば、お寺の建て替えで、廃材となった本堂のケヤキ材を“捨てるならください”ともらい受けたり。山形へライブで呼ばれたときは、山形大学の先生が案内役になって、地元の材木店から3挺分のいいブナ材を無料で譲り受けました。林野庁の方からは“北海道厚岸のイチイの木でつくりませんか”という話をいただくなど、周りのみなさんが、普通じゃ手に入らない銘木をくださったんです。

なかでも、最も数多く使用した素材が木曽ヒノキです。それも樹齢400年以上という銘木中の銘木を伐採して残った大きな切り株を製材して、“これで檜三味線をつくるといい”と言われて始めたもので、もう2000挺の檜三味線を送り出しました」

福井の自宅工房で。ヒノキ、ブナ、ツバキ、ケヤキ、イチイなどの銘木で製作した、形も様々な15挺の三味線を展示する部屋も。それぞれの木との出会いにドラマがあるという。
檜三味線と撥(ばち)。ヒノキは芳香が素晴らしく、心材の淡紅色が美しい。深山さんの檜三味線は、樹齢400年以上の特別な木曽ヒノキの巨大な切り株をとくに譲り受けたものという。

──今はどんな日々をお過ごしですか。

「月の3分の1は、福井から新幹線で上京して、世田谷区にある知的障害をもつ人の就労支援の施設『白梅福祉作業所』の利用者さんに檜三味線の演奏指導をしています。その期間は世田谷に泊まり込んでいます。この仕事は25年以上前から続けていて、最初は檜三味線40挺を利用者さんと一緒に手づくりすることから始めたんです。きっかけは私がコンサートを終えてスタッフと居酒屋で打ち上げをしていたら、かたわらで飲んでいた女性グループが“コンサート会場にいたんですよ”って。それが白梅福祉作業所の職員の人で“うちの施設にも演奏に来てくれませんか”と頼まれたのが縁の始まりです」

──教え子の腕前のほどはいかがですか。

「7年ほど前ですが、木曽で、檜三味線の全国大会を開催したことがあって。白梅福祉作業所の利用者さんは団体の部に出場したんですが、全国30団体のなかで優勝したんですよ。一番の大人数だったこともあって、結構な迫力でね。私は中立の立場でどこにも票は入れなかったけど、ほかの審査員のみなさんが“感動しました”と言っていました。

月のもう3分の1は福井の国見中学校で檜三味線の奏法を教える授業を受け持っています。音楽の授業の一環で1年生は琴、2年生は檜三味線、3年生は和太鼓を習い、演奏発表会もやるんです。私自身のライブの依頼もスケジュールがあえば引き受けます。ですから、日々の明け暮れは何かと忙しい」

──今後の目標は何かありますか。

「とくにありませんがね。よき相方だった女房は8年前に亡くなっていますが、いずれ私が逢いに行くまでは健康第一を心がけていこうと。朝は必ずラジオ体操をして、ウォーキングもして、好きなお酒を飲みすぎないよう、愉しくたしなむようにしてますよ」

毎月10日ほど、深山さんは福井から上京して世田谷区の「白梅福祉作業所」で檜三味線の演奏を指導。この日はお祭り。自ら先頭に立って普段の練習成果を披露する。

野村深山(のむら・しんざん)
昭和20年、群馬県生まれ。有能な営業マンだったが、40代半ばの平成元年に会社を辞し、自身が創案した「木づくり三味線」の奏者に転身。国内外を精力的に歩いて演奏活動を行なってきた。かたわら希望者には製作を指導し、世に送り出した檜三味線は2000挺近くに及ぶ。CD『木曽檜三味線の響』は「アラビアのじょんから」など全10曲を収録。野村深山工房(電話:090・8097・1300)で購入可。

※この記事は『サライ』本誌2024年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/多賀谷敏雄 取材協力/デイサービスヨウコー早稲田)

 

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