父・道長のもと、一族繁栄に大きく貢献する
道長によって、一条天皇の中宮につけられた彰子。図らずも、同じ正妻である定子とライバル関係になりましたが、娘を出産した直後、定子は亡くなってしまいます。定子の死後、残された彼女の子どもたちを、彰子は我が子のように大切に育てたそうです。
その後、寛弘5年(1008)、彰子は一条天皇との間に敦成(あつひら)親王を授かり、さらにその翌年には、敦良(あつなが)親王を授かります。敦成親王を出産する際、物怪と呼ばれる怨霊が多く出現したとされ、陰陽師と僧侶に祈られながら出産に臨んだという逸話が、『栄花物語』や『紫式部日記』などに記されています。
彰子が出産した皇子たちは健やかに成長し、敦成親王は後一条天皇、敦良親王は後朱雀天皇として即位することに。これにより、道長は外祖父となって、望み通り権勢を振るうことができたのです。また、二人の天皇の母である彰子も、強い権力を有するようになり、後宮の最高権力者として一族の子女の後見役を務めたそうです。
その後、万寿3年(1026)に出家し、上東門院(じょうとうもんいん)と号した彰子。87年の大往生を遂げたため、晩年は子や孫に先立たれる寂しい日々を過ごしたと言われています。
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