藤原道長の妻となる
成長した明子は、摂政や関白を務め、政界の頂点に君臨していた藤原道長と結婚します。邸宅が、京都の高松内裏と呼ばれる場所にあったことから、「高松殿」と呼ばれるようになった明子。しかし、道長にはすでに、倫子(ともこ/りんし)という正妻がいたため、正式な婚儀が執り行われることはありませんでした。
正妻・倫子のように、公的な場で道長と行動を共にすることもありませんでしたが、それでも道長との間に四男二女を授かることとなりました。子どもたちは、倫子の子で義理の兄にあたる頼通(よりみち)と協調して、出世を図ろうとしたそうです。
特に、長男・頼宗(よりむね)は、右大臣にまで昇進したと言われています。道長の妻として、一定の地位を保っていたとされる明子。子どもたちが成長した後、出家したとされます。その後の動向は詳しく分かっておらず、永承4年(1049)に没したと考えられています。
まとめ
幼くして後ろ盾を失うも、時の権力者である道長の妻となり、独自の出世コースを歩もうとした源明子。正妻・倫子に比べると、立場が弱かったものの、子どもたちを立派に育て上げたと言われています。家柄が出世に大きく影響する厳しい貴族社会の中で、最後まで逞しく生き抜いた人物と言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)