はじめに-小早川秀秋とはどんな人物だったのか?
関ヶ原の戦いで一躍有名になった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)。しかし、それは皮肉にも「裏切り者」としてでした。そんな彼は、実際にはどのような人物だったのでしょうか。史実を元に紐解いてみましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉の親族として期待されながら、秀頼誕生後は小早川家の養子に押し込められ、屈折した一面を持つ人物(演・嘉島陸)として描かれます。
目次
はじめに-小早川秀秋とはどんな人物だったのか?
小早川秀秋の生きた時代
小早川秀秋の足跡と主な出来事
まとめ
小早川秀秋が生きた時代
小早川秀秋が生まれたのは、本能寺の変が起こった年。天下は信長から秀吉へ。やがて叔父である秀吉に嫡男・秀頼(ひでより)が生まれると、秀秋の人生は暗転し、複雑な心情を抱えたまま成長します。そして迎えた関ヶ原の戦いでは、一転、徳川方に味方し、東軍勝利、家康による天下統一の要因を作りました。
小早川秀秋の⾜跡と主な出来事
小早川秀秋は天正10年(1582)に生まれ、慶長7年(1602)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。
3歳で秀吉の養子になる
小早川秀秋は、天正10年(1582)、秀吉の正室・寧々(ねね)の兄である木下家定(きのした・いえさだ)の五男として近江長浜に生まれます。幼名は辰之助(たつのすけ)。幼少の頃に秀吉の養子となって、秀俊(ひでとし)と名乗りました。
ところで、寧々の旧姓は杉原です。兄がなぜ木下姓を名乗ったかといえば、妹が杉原家より身分の低い秀吉(当時は木下藤吉郎)と結婚するにあたり、自らが木下家に養子に入ることで周囲を納得させるためでした。ふたりにとって家定は恩のある人物。当然、秀秋(当時、秀俊)のことも溺愛したといわれています。
秀秋は子のいなかった秀吉の期待を一身に背負い、わずか7歳で元服。丹波亀山城10万石を与えられました。天正19年(1591)には従三位(じゅさんみ)・権中納言(ごんちゅうなごん)・左衛門督(さえもんのかみ)という3つの位を授けられ、秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)に次ぐ権力継承保持者とみなされていました。
小早川家へ。隆景没後、秀秋を名乗る
前途洋々たる秀秋の人生に暗い影が差し始めたのは、文禄2年(1593)、秀吉と側室・淀殿(よどどの)との間に秀頼が誕生したことでした。秀頼しか目に入らなくなった秀吉は秀秋の処遇に困ります。
その様子をみて、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)は、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)に対して、「秀秋を、まだ実子のいない毛利輝元(もうり・てるもと)の養子にしてはどうか?」と持ち掛けます。しかし、隆景はこれを断り、自らの養子としました。この決断について、毛利本家が秀吉に乗っ取られるのを防ぐため、との説があります。
秀秋にとっては、納得しかねる状況ではあったでしょう。その翌年には、なんと関白だった豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、秀吉の命令で切腹。秀秋も「謀反に加担の疑いあり」と所領の丹波亀山城を没収されるのですからたまったものではありません。
しかし、慶長2年(1597)、小早川隆景の隠居により家督を譲り受け、筑前 (ちくぜん)、筑後 (ちくご)、肥前 (ひぜん)など33万石ともいわれる領地を得ました。同年、隆景が死去。こののち、秀俊から「秀秋」と名乗るようになりました。
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