はじめに-宇喜多秀家とはどんな人物だったのか?
宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は、豊臣秀吉政権下で最年少の五大老に選ばれ、関ヶ原の戦いでは西側の副大将として奮戦した武将。では、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースに紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、豊臣家への忠義を貫き、関ヶ原の戦いにおいて徳川家康を追い詰める勇将(演・柳俊太郎)として描かれます。
目次
はじめに―宇喜多秀家とはどんな人物だったのか?
宇喜多秀家が生きた時代
宇喜多秀家の⾜跡と主な出来事
まとめ
宇喜多秀家が⽣きた時代
宇喜多秀家の生涯は、豊臣秀吉が織田信長のもとで出世し、天下統一を成し遂げる時代と見事にリンクしています。もともと父・直家が秀吉と組んで毛利と戦っているさなかに病死するという因果もあって、秀吉に目をかけられ、のちに四国征伐、九州征伐、小田原征伐に従軍するなど活躍。
やがて関ヶ原の戦いを経て徳川の世となったとき、秀家は敗軍の将として表舞台から姿を消します……。
宇喜多秀家の⾜跡と主な出来事
宇喜多秀家は元亀3年(1572)に生まれ、明暦元年(1655)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿っていきましょう。
秀吉に厚遇され、豪姫をめとる
宇喜多秀家は、岡山城主・宇喜多直家の嫡男として生まれます。初名は家氏。天正9年(1581)に直家が没すると、わずか9歳で家督を継ぎました。天正10年、毛利征伐のため出陣してきた豊臣秀吉に気に入られ、名を一文字もらって秀家に。以来、秀吉が養い親のような存在になりました。同年、秀家は秀吉の備中高松城攻撃に協力、将兵一万余を差し出したといいます。備中高松城が水攻めに遭うと毛利は救援に駆け付け、両者直接対決となるはずでしたが、本能寺の変の知らせが届き、秀吉は急ぎ毛利と講和を結びました。
秀家は恩賞として、備中(びっちゅう)東部を授けられ、備前(びぜん)・美作(みまさか)・播磨(はりま)の西部と合わせて50余万石を擁する大名へと躍進しました。
天正17年(1589)、前田利家の四女で秀吉の養女・豪姫(ごうひめ)と結婚。ふたりは二男一女に恵まれ、仲睦まじかったといいます。ちなみに豪姫は、1992年に映画化(タイトル『豪姫』)もされた有名な姫君です。
このように、のちの関ヶ原の戦いへと続く秀吉と秀家の切っても切れぬ関係性が構築されていきました。
五大老に就任。岡山城を築城する
文禄元年(1592)、文禄の役で朝鮮に渡り、小早川隆景や黒田長政らと敵陣を大破します。その功績により中納言に出世。慶長2年(1597)、慶長の役では毛利秀元(もうり・ひでもと)とともに遠征軍の監軍として渡海しました。そして翌年、最年少27歳で五大老の一員となり、政権の実力者に数えられるまでになったのです。
この間、秀吉の指揮を仰いで岡山城を大改築し、商工業者を城下に集め、岡山発展の基礎を築きます。天守閣の落成は慶長2年。豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆でした。
関ヶ原の戦いでの奮闘
秀吉、ついに没し、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いが勃発。秀家は迷うことなく豊臣方に付き、副大将として参戦します。秀家にとって徳川家康は、豊臣家をないがしろにする裏切り者でしかなかったことは、これまでの秀家と秀吉の関係性からも察することができるでしょう。
実はこのときの宇喜多軍の戦力は、一時期より格段に落ちていたといいます。秀家による領内検地の強行や日蓮宗弾圧などを契機に重臣が離反した、「宇喜多騒動」が背景にありました。
けれど、秀家はひるむことなく1万7千騎を率いて、福島正則(ふくしま・まさのり)軍と激突。関ヶ原で最も激しい戦いだったといいます。しかし、小早川秀秋の寝返りで宇喜多軍は崩れ、それを知った秀家は小早川軍に突撃しようとしますが、家臣に戒められ、関ヶ原を逃れたと伝わっています。
【敗れて八丈島へ。50年後、当地で没する。次ページに続きます】